DON'CRY -ドンクライ-

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「人を見下さないと生きていけない」 見下しの病と、1億3000万人総見下し社会

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どうもこんにちは、つい人を見下してしまう者です。

本屋に行けば、『フランス流、人と比べない幸せのレシピ』みたいな本が平積みされている今日この頃。
誰も彼も口を揃えて「幸せになるためには、他人と比べてはいけない」と言っている。

けど、そんなことはわかってる。わかってるんです。
人と比べて上だの下だのグチグチ考えなければ、世の中はもっとシンプルで過ごしやすくなるなーとは思う。

でも、どんなに小さなサル山にも序列があるように、人間も他人と比べて上か下かをどうしても考えてしまう生き物なわけで。
この日本という社会もその実、「1億3000万人総見下し社会」なのではないかと。

あなたが普段バカにしている同期も、みんな大好き乃木坂46だって、誰もが「私はあいつよりマシ」と思って生きているのではないかね。

今回は、「見下し見下されて、生きていくしかない」この世界を図でまとめてみた。
もう俺はこんな感じでしか、現実を見られないのだ。

 

抵抗できない、他人を下に見る快感

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Facebookで地元の落ちぶれた同級生を発見した時、気付けばなんとも言えない快感を覚えたことはありませんか。
この図でも書いてるけど、地元やDQNへの見下しの目って少なからず存在する。

小学2年のとき急に私のランドセルをハサミで切りつけてきた川越さんが、中学を中退してコンビニの店長と結婚してることを知って、なぜか勝った気分になって(自分だって無職なのに)、「まだあいつよりかはマシじゃね?」と見下すと、醜くも安心したりする。

また、自分に自信をなくした時は、卑しいと思いながらも自分より下の存在を探してしまう。誰かより高い所にいると思わないと、まともに立ってられなくなるからだ。

いや、「人を見下すなんてしない。人類皆兄弟。この世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」そう感じる天使のあなたは、多分DON’CRYじゃなくてMERYとかTABI LABO見た方が幸せになれる。

「あなたは大丈夫?彼氏が途切れないキラキラガールになるための7つの秘密」みたいな記事を鵜呑みにして、是非キラキラ天使道に邁進して欲しいと切に願う。

 

他人を下に見る時、他人もまたこちらを下に見ているのだ

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最近、SNS離れと言われるけれど、その要因の一つに「見下されるのが怖くて投稿できない」があるのは間違いない。

例えば、俺がFacebookに投稿しても、いいね!を絶対にくれるのは親戚のおじさんと大学時代の後輩の2人だけ。
いいね数が少ないと、「人望が薄い人」とレッテルを貼られて周りから見下されてしまうから、いいね!2の投稿はきつい。

その点、レコーディングスタジオで猫と戯れているだけで200万いいね!を得るテイラースイフトはマジでなんなんだろうな。
2歳しか変わらないのに、いいね数100万倍の差。俺も別れた恋人の性癖を歌った曲をitunesで配信したらいいのか。


「学力カースト」の中高時代が見下しの芽生え

俺が呼吸をするように、人を見下すようになったのには理由がある。
中高で冷酷無比な学力カーストに組み込まれ、上がれば天国、下がれば地獄の世界を6年間も味わっていたからだ。

うちの中高は「学力別クラス」というシステムを導入していた。
予備校や塾によくあるのだが、頭がいい人は1組、普通は3組、バカは6組のように学力で上からクラスを分けるシステムがそれだ。

大学のように教科ごとにクラスが変わり、どの教室にいるかで学力が周囲にバレるのである。
学校という閉鎖空間の中だと、これが心理的に辛い。

鬼畜仕様の母校はこれに加えて、生徒全員のテストの成績が全て廊下に張り出されるという決まりがあった。
完全に成績がオープンソース。俺の8点の数学の点数も掲示され、点数の下に屈辱の「6組」と書かれていた。

どんなに可愛くても、イケメンだとしても、6組になったものは他の組からは蔑みの目で見られる。
「可愛くても、6組だしね」
「6組の人とは付き合えない」

今まで仲が良かった友人からも、陰口を叩かれ、生きる場所を失っていく。
そんな環境で6年間過ごした俺は、いつのまにか友達さえも下に見ることが当たり前になってしまったのだった。

 

世界を自己完結させれば見下しはなくなる

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こんな見下しサラブレッドの俺でも、この図の中から抜け出せた、つまり「見下しの病」が治ったときがある。

恋人だ。恋人の存在が「見下しの病」を治癒してくれたのだ。
無職のオタクがいきなり加藤ミリヤみたいなこと言ってごめん。一瞬で全読者を敵に回した気がするが、お願いだから聞いてくれ。

俺が見下しをしてしまう原因は、自分の劣等感なのだ。
自分に自信がなく、自分の存在を自分で肯定できないから、自分より価値の低そうな人を見つけて、自分の方が価値が高いことに安心するのである。

俺はヒゲが濃いのがコンプレックスだった。
「気持ち悪い」「不潔そう」「くさそう」いろんなワードが頭の中を飛び交っては、自分に自信が持てなくなっていった。
でも、彼女はそのヒゲを「チクチクして気持ちいい」と言ってくれたのだ。

その瞬間、「俺は最強人間になった」と思った。
他人に味方されなくてもこの人のために生きていけると思えたのだ。

湘南乃風がよく歌ってる「一生守る」みたいな言葉が腑に落ちた瞬間だった。
もう誰にどう見られようが関係なくなるのである。見下しの病が治ったのだ。

これは自分の価値基準が、「1対多」の世界から、「1対1」の彼女と自分との2人だけの世界になったからだ。
世界が2人で完結するならば見下しは必要なくなるのである。

そして、別に彼女だけが治療法じゃない。
日常系アニメに没頭するときも、見下しを忘れられた。

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amazonより転載©️KADOKAWA

俺はオタクだが、オタクの中にだって見下しはある。
でも、『のんのんびより』 を見ていると、そんな俺もただひたすら優しい世界の住人となるのだ。
つまり、世界が俺と『のんのんびより』で完結する。
満たされた世界では俺は他人を見下したりしやしない。

だけど、楽しい時間には終わりがある。
彼女は実はとんでもないDV女で、首を絞められたり、ひっかかれたり噛みつかれたりして全身血だらけになったり、アニメにも最終回が来てしまったり。

この記事でも書かれてたけど、『のんのんびより』だって終わってしまう。

俺と『のんのんびより』とで完結されていたはずの世界が、強制的に外界とコネクトされるのだ。
はい、れんげちゃんさようなら。見下しワールド、こんにちは。
また自分の劣等感と、見下しの病に向き合わなければいけないという絶望。

そのセンチメンタルとかそういう名詞では形容できないほどの感情を、オェオェと口から吐き出しながら、今夜もまた俺は、この薄暗い部屋の中、「下に見える他人」をfacebookで探してしまうのである。

 

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