こんばんは、稲田ズイキ(@andymizuki)です。
今宵ドンクライがお伝えしたいのは、誰にもわかってもらえないどころか、口にすることさえできない孤独について。
「人の道を踏み外す」という言葉があるが、僕には文字通り、「人間の道を踏み外してしまったんじゃないか」と思った経験がある。
ここで一つ、この記事を見ているあなたに聞きたい。
「ルギア」というポケモンをご存知だろうか。
「ポケットモンスター銀」に出現する『海の神』とも伝えられている伝説のポケモンだ。
『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』では「破滅を救う神」として伝説のポケモン同士の争いを止めようとした、いわば伝説 of 伝説のポケモン。
僕はその「ルギア」で抜いた。伝説のポケモンをオカズに使ったのだ。
突然だが、僕は生まれつき、へそに穴がない。
母が出産後、自力で僕のへその緒を引っ張り抜いたらしく、へその緒のヘタみたいなものが張り付いた状態が今も継続している。
小学生の時はヘソを見られて「宇宙人だ」とよく言われていた。
それでも、人間であることに自信があった自分は「いやいや、宇宙人じゃないよ」と言えていた。
ところが、だ。
ルギアで抜いた中学2年の夜から「いやいや、俺は人間だよ」と言えるだけの自信はガラガラと崩れ始めた。
「俺は人間のはず・・・だが・・・?」と迷うレベルまでには、自分の人間度に自信を持てなくなってしまったのだ。
ルギアに性的興奮を覚える自分がいる。
ルギアの股関節から太ももの姿を頭の中で思い描き、夜な夜なエアロブラストしてしまう自分がいる。
(※エアロブラスト:ルギアが覚えるポケモンのわざ)
性的興奮は人間の子孫繁栄のために人間に組み込まれたシステムだ。
だとしたら、ルギアに興奮している俺は人間の道を踏み外したのか?
そもそも俺は人間ではなくて、ポケモンなのではないか?
これは、「ルギアで抜いてしまった男が、自分のことをポケモンなのではないかと錯乱し、自己否定の末、他者の存在のありがたさに気づく」までの、壮大なスケールを持って描く、壮大に無駄な話である。
母の太ももとラブラドールレトリバーがルギアを爆誕させる
ルギアは抜ける。抜けてしまったのだ。
その経緯には、母親の太ももとラブラドールレトリバーが一枚噛んでいるという話をまずさせてほしい。
中学2年生の頃、僕はびっくりするくらいウブだった。
田舎の田園地帯で育ち、インターネットにも性にもウブだった自分は、中学時代はずっとEZweb(死語)の月額360円の「グラビア写真館」というサイトに登録し、水着グラビアでしこたま、しこをたまたましていたのだ。
(ちなみに、その「グラビア写真館」の登録解除を忘れ、大学1年生になるまで月額費を母に払わせていた、というなんとも悲痛な話もある。)
「水着の先の、もっと立体的でHなやつを見たい。」と、少年は股間を膨らませながら次なる野望を抱いた。
その当時「立体的」という言葉を考えていたかどうかは定かではない。
要するに、もっと動的で3次元的なHなやつが見たくなったのだ。
AVのAの字も知らなかったウブな自分は、妄想でその先の光景を補うしかなかった。
ところが、これが難しいのである。いつも観ているのがグラビア画像。
これをどう三次元的に動かしたらいいのか、イメージが難しかった。
ましてや、水着グラビア以上にエロいことなぞ、体験したことがないため、想像しようがなかった。
そこで、リアルで見たことのあるエロいもの(おっぱいとか太もも)を起点に想像しようとしたのだ。
とは言っても、物心ついた時から、現実世界でおっぱいを見たことがなかったし、唯一間近で見たことがあるのは太もも。しかも母親の太ももだけだ。
だから、「エロい太もも…エロい太ももに挟まれている光景…」と想像すると、どうしても頭の中で母親のイメージに結びついてしまい、萎えてしまうという現象が何度も起きた。
「何度やっても、母親に辿り着いちまう!」という地獄がそこにはあった。
そこで、試しに人間以外の太ももを想像することにしたのが、全ての事の始まりだった。
犬だ。母親のイメージから脱却するために、家で飼っていたラブラドールレトリバーの太ももを想像した。
もふもふだが、筋肉が引き締まったあの太もも。優しさと強さのコンツェルト。ヤクザの炊いた豚汁のような味わい深さ。あったかい。けど、強い。暴力と優しさに包まれて、ああだめ太もももももももものうちぃぃんん
その晩、僕は飼い犬の太ももに包まれている光景を想像しながら、ベディグリーチャムをしこたまミキサーした。
※これはあくまで、うぶな中学生の頭でエロいことを想像したら、たまたま犬の太ももが結びついたという話であって、実際に飼い犬に対して性的なことは一切していないということだけはご了承ください。僕は「普通に」犬を可愛がっていました。
移ろいゆくイメージの世界で僕は君(ルギア)と出会った。
このときは、まだまだ罪悪感とか人外感は感じることはなかった。
そんなことよりも、想像の世界をトリップしている感覚の虜になっていたのだろう。
さて、イメージというのは連鎖していくものだが、ラブラドールレトリバーの太ももは、想像を続けていくと、もっと抽象的な”ブツ”へと姿を変えていく。
僕の夜な夜な行う想像の世界では、ラブラドールレトリバーの太ももは以下の3要素で構成され、「分解→再構築」を繰り返していた。
・白い(白色性)
・もふもふ、ふわふわ(受容性)
・中は硬い、重そう(暴力性)
だから、ラブラドールレトリバーの太ももは、でっかい大福に姿を変えたこともあったし、パンダの腰回りに変わったこともあった。
この「分解→再構築」の果てで出会ったのが、ルギアだった。
母親、ラブラドールレトリバーという長い旅路を経て、僕の頭の中にルギアが爆誕したことは今なお忘れられない、感動的な瞬間だった。
小学生の頃に母親に連れられて観に行った『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』。
あの時観たルギアの太もも、そして腰回りのイメージが、完璧にピタッと自分の想像したい世界のイメージと重なりあったのだ。
白銀色をしたルギアのフォルムが持つ、優しさの中に秘めた暴力性。
作中では、ルギアは海の神として祀られているように描かれているが、それは決して中立的な神ではなく、荒々しい力の象徴として描かれているのである。
白色性・受容性・暴力性。3要素を満たしているではないか。
ああ、これには、エアロブラスト待ったなし。
ウォータースライダーに乗っているかのように、僕はルギアの太ももを縦横無尽に滑り続けた。
すると、ルギアは僕を翼で太ももに押し付けようとするではないか!ああ、苦しい!苦しいよルギア!これ以上は、だ、め、、、
僕はルギアの太ももに包まれる光景を想像し、来る日も来る日も抜いた。
「なぜ俺はルギアで抜いているのか?」(真顔)
しかし、ふと冷静に自己を振りかえってみたときに思ったのが、
「なんで俺はルギアで抜いているのか?」という至極真っ当な疑問だった。
エアロブラストを放つたびに、自己嫌悪と罪悪感に駆られ始めた。
なぜなら、当時ウブだと言っても、他の男子の連中がポケモンで抜いていないことは知っていたからだ。
ましてや、俺が抜いているのは伝説のポケモン「ルギア」。
ラッキーやルージュラなら、人間の女性に近い形をしているので、ギリギリ、本当にギリギリだが、性的興奮の根拠は見出すことができる。
しかし、僕が抜いたポケモンは、ルギアだ。
人間の形もしていなければ、伝説のポケモンなので♂♀の区別もない。
「ルギアに性的興奮を覚える俺は人間ではなく、ポケモンなのかもしれない」
誇大な妄想を抱きがちな厨二病の症状と相まって、この一つの可能性がだんだんと脳内を支配するようになった。
「自分は正常ではないのかもしれない」という自分への不信感でいっぱいになった。
「自分はおかしいのか?」と、誰かに相談してみたかった。
いっそのこと、頭ごなしに「お前はおかしい」と言ってほしかった。
でも、自分が「ルギアで抜いている」なんてことを誰に言えようか。いや、言えるはずがない。
もし本当に万が一、自分と同じ「人間の皮を被ったポケモン」が友達の中にいたとしても、ルギアをオカズにしていると言えば、引かれる自信があった。
おそらく、ポケモン界でもルギアはマイナーなズリネタだからだ。
自分が自分のことを信用することができなくなるというのはこんなに怖いものなのか。
異常な精神状態だった。
こうして、この時期僕は、自分不信が他人不信を呼び、深い深い闇の底に落ちていった。
「この世界にはもっとやばい奴がいる」という安心感
罪悪感に耐えられなくなったからなのか、それともAVサイト(Free & Easy)を友達に教えてもらったからなのか、理由は覚えていないが、僕はルギアをオカズにすることから遠ざかっていった。
そして、それから約5年後のこと。
浪人時代の友達Oが、会話中にふと「ポケモンは抜ける」と言ったのだ。
僕はすっかり自分がルギアで抜いていたことを忘れてしまっていたが、彼のその一言で全てを思い出した。
心の奥底にしまっていたあの孤独感が野に放たれ、全てが許されたような気がした。
俺以外にもポケモンで抜いている人間がいた!自分だけが異常なわけじゃなかったんだ!
僕の感動を待たずして、Oは続けてこう言った。
「俺はいつもラティアスに◯◯◯を生やして、上から◯◯まぶして、◯◯◯を愛撫しているよ。」
・・・
理解できなかった。
◯◯◯を生やして◯◯まぶして◯◯◯を愛撫している?
意味がわからなかった。
俺はありのままのルギアが好きだった。ルギアの腰回りが好きだったんだ。
ルギアに◯◯◯を生やす? そんな無粋なこと、俺がルギアにできるわけがない。
仲間と見せかけて、仲間ではなかった。だから、裏切られたような気がした。
しかし、彼の存在は「この世界にはもっとやばい奴がいる」という事実の証明でもあった。
もし、悩んでいた中学時代にOと出会っていたら、どれだけ僕は救われただろうか。
ルギアで抜く自分を否定せず、ありのままの自分を認めることができただろう。
好きなものに対してもっと素直に好きと言えていただろう。
人間はヤバい。
自分のヤバさなんて大したことがなかった。
自分だけがこの世界でヤバいわけじゃない。
絶対にヤバい奴がこの世界にはいる。
そう思うだけでなんと生きやすいことだろうか。
気づけば、自信満々とラティオスのシコリティの高さについて語るOの言葉を聞きながら、僕は心の中でOに感謝していた。
たしか、その晩だったと思う。
5年ぶりにルギアをオカズにエアロブラストを放った。
いつもは虚無感に襲われる賢者タイムだが、その日だけは清々しい気持ちだった気がする。
(もし、ルギアに欲情してたよという方、男女問わずおられましたら、DMにてご連絡をお待ちしております。)
書いた人:稲田ズイキ
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