DON'CRY -ドンクライ-

アニメやマンガ、ゲームに小説、音楽など、「作品」によって孤独から救われて生きている人のためのメディア

「逃げ場」を作ってくれてありがとう。教室に居場所がない私を、図書室司書さんと本が救ってくれた

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自分で所属先を選べない子供の頃というのは、波長の合わない人が多い環境に身を置かざるを得ないということがあります。

「周りと上手くやりたい」
そう思っても、どうしても、コミュニケーションがとりにくい。学校の教室に居場所がない。

でも、そんな私は、図書館司書さんと、本たちに救われました。そして社会人になってからは、本やマンガ好きの友人たちとの出会いが生まれていきました。

今思うこと、それは、あの時「逃げ場」を作ってくれてありがとう、ということ。

そして、「たとえ逃げでも、救いになって、自分の存在をとどめておいてくれるなら、それでいいじゃないか」ということ。

辛い時、苦しい時、没頭できるマンガや本の世界というのは救いになります。
そうして何かに没頭していれば、思わぬ人との出会いにつながることもある。決して多くはなくても、「波長が合う人」というのは確かにいるのです。

 

「ここにいるしかないのか」絶望の中にいた学生時代

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私は今、社会人を中心にマンガ好きが集まるコミュニティーにいます。

社会人になってこのコミュニティーに入ってから、とても有難いことに、マンガや本について話せる人にようやく出会い、楽しく充実しているなと思えることがあります。

でも、ここまで来るのには時間がかかりました。

私は子供の頃から、人と遊びに行ったり話したりするより、本を読んでいるほうが幸せ、というタイプでした。今となっては体を動かすことや、友達と話すことも大切だと理解していますが、当時の私は本やマンガの世界の方が楽しく、勉強になると考えていたのです。

例えば、小学校の方針で、休み時間にはドッジボールなどでクラス全員が遊ぶことが推奨されていました。
でも、私は心の中で「それよりも図書館で借りたシャーロック・ホームズシリーズの続きを読みたい」と思ってしまう。学校の図書館の文庫本の「あ」の棚から順番に読んでいくことさえあるくらい、常に読みたい本があったのです。

子供の頃はそれでもいいかもしれません。
しかし中学・高校になると、特に女性は、恋愛、ファッション、芸能人、音楽と好きなものが広がっていきます。(私は女性として女性の輪のなかにいたので、男性の方はよくわからないのですが)

学校を含め「友達」と会うときの話題は「どの芸能人がかっこいいか」「どのテレビドラマがおもしろかったか」が中心に。

私はそもそもアニメ以外のテレビ番組を見ておらず、芸能人もほとんどわからないし、男性俳優にたいしても「見た目がかっこいい」かどうかよくわかりませんでした。

なので「●●がかっこいいよね」「あのシーンよかった!」と言われても、まずピンとこない。

「なぜこの話題で盛り上がれるのか」と意味がわからなかったので相槌も打てず、徐々に皆の中にいるのが心苦しくなってきます。

つまり、子供の頃から変わらず本やマンガを読み続けていると徐々に話が合わなくなって、友達の輪に入りにくくなったのです。

特にマンガやアニメは、女性の場合「どこかで卒業する」という雰囲気がなんとなくありました。そして本が好きな人は「暗い人」

いまでこそ、大学生以上になっても「マンガやアニメが好き」というのは「その人の自由だよね」と尊重され、オタクやアニメ好きを名乗る人も増えています。
しかし、私が10代のころは「マンガやアニメは子供時代のどこかで卒業するもの」という不文律が、特に女性の中では強かったと思います。(もちろんそうではないコミュニティがあると思いますが、当時の私は残念ながらそれに出会うことは出来ませんでした)

そうして学校で話す人が減っていくと、現実社会でつながれる人、自分の思いを共有してくれる人がいるとは思えなくなりました。

学校生活は、休み時間にはずっと本を読んでいて、朝の時間や昼休みなどまとまった時間は周りの目を気にしながらそそくさと図書室に「逃げ込む」。
そして、放課後はぎりぎりまで図書室にいて、一人で帰宅する。

学校の休み時間や放課後に友達とお話する、遊びに行くというのは本やマンガの中のフィクションでした。

「あと何年、この生活をしないといけないのか」
そんな息苦しさを、ずっと感じていました。


図書室司書さんと本が「逃げ場」を作ってくれたから、生きてこられた

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もうお分かりかもしれませんが、そんな私が唯一学校内で心を落ちつけられたのが図書室です。

当時私は「まだ読んでいない本がたくさんある」と楽しんでいました。歴史小説といえば、司馬遼太郎子母沢寛夢枕獏先生しか知りませんでしたが、山岡宗八先生らがいることを知ったのも、学校の図書室でした。
(社会人になって本やマンガを通じて出会った人と話していた知ったのですが、私の学校は他の学校に比べて、マンガ、小説、教養本を含めかなり充実していたようです。)

そして贅沢にも専門の司書の方がいらっしゃいました。女性で、口数はあまり多くない、おとなしい雰囲気の方。
私が図書委員だったこと、さらに委員の仕事があるとき以外も図書室に行っていたことから、おのずと司書の方と接する機会が増えます。

大きな声で主張をしたり明るく元気でいることを求めたりすることはない方でしたが、委員会で生徒が議論になると、方向を示してくれるしっかりした「大人」。

そして、私が人と関わらず、どんなに本ばかり読んでいても馬鹿にしないどころか、読んだことのない本をどんどん紹介してくれました

例えば、司書さんが紹介してくれたのは荒俣宏先生の「帝都物語」、京極夏彦先生の「京極堂シリーズ」。また長野まゆみ先生の作品などに熱中しました。

帝都物語」を読んで、都市計画論や陰陽道について調べ、「京極堂シリーズ」を読んで精神医学や心理学に興味を持ちました。

彼女を通じて作品に繋がれたことで、私は逃げ場を得ることができました
子供ながらに、「こういう人になりたい」と思え、この狭い世界の中に、まだとどまっていたいと思えた理由のひとつでした。卒業のとき貸し出しカードをプレゼントしてもらえたのはいい思い出です。

でもきっと、司書の方は私のおかれた状況をご存じだったわけではないと思います。

ちょうど、子供の間のいじめや仲間はずれが社会問題になり始めた頃。
休み時間になるとすぐに図書室にきていた状況などをみて、「友達が少ないのだろう」と察してくれたのでしょう。委員会の前は図書室の作業用スペースでお弁当を食べることも許してくれました。

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教室にまだいた頃は、みんながグループを作ってお弁当を食べている中、一人で食べないといけなかった。

そんなとき、食事の味はまったくしません。
何を食べているのかもほとんどおぼえていません。
そんなふうに食べざるをえない生徒にとって、「逃げ場」を得られたことが、どんなに救いになったことか。

また、同時並行で読んでいたのが週刊少年ジャンプといった週刊誌。
「この連載中の物語はどうなるのだろう」
「まだまだ私の楽しめる本やマンガがある」

――皆と同じことができない恥ずかしさから、「いっそ消えてしまいたい」という想いと、「まだここにとどまっていたい」という想いの間で揺れる中、まだ見ぬ広がる世界が、かろうじて、私を生にとどめ置いてくれたのです。

 

"己のために生きよ"と教えてくれた「BASARA」が、今でも救いになっている

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(出典:amazon / ©小学館

こうした中での支えのひとつが、田村由美さんのマンガ「BASARA」でした。

―舞台は文明が滅んだあとの地球。
日本を支配する体制派と、虐げられる人々が拮抗する世界。

虐げられる村の長の元に生まれた女性の主人公、更紗(さらさ)は、『運命の子供』として体制派を打ち倒す旅に出ます。
しかし、その最中で、体制派のトップの息子、朱理(しゅり)と恋に落ちます。

多くのキャラクターの生き様、名台詞に引き込まれました。そして、特に心に響いたのは朱理の言葉。

最後の戦いで、更紗らと敵対する軍隊を率いるトップとなった朱理は、連れてきた兵士らにこんな言葉をかけます。

己の足で立て。己が、己の望むことを、己の望むように、己で考え、己で選び、己で決めろ。
(中略)
己の意志で、判断で、誇りを持って、己のために生きよ。

当たり前ですが体制側の人間、特に兵士等は上の決めたことに従って生きてきた人がほとんど。上の人が決めてくれた生き方に従っていくしかなかった。

そんな彼らに朱理は、自分の道を自分で考えぬき、決めることを突きつけます。それこそが当時の支配体制が覆った後の新しい日本を作る姿である、と。

正直に言うと、友人が少ない私には、普通の人がどのように自分の道を見定めて決めているのかはわかりません。

しかし、少なくとも当時の私は、周りに求められること、周囲の人によって示される「こうでなければならない」という像に、憧れながらもなれない自分に嫌悪感を抱いていました。「なぜ周りと同じことができないのか」と。

当時の私に声をかけてくれる人もいましたが、いまいち彼らとうまくいかないことにもまた、落ち込む日々でした。

でも、朱理の言葉をみて、「ああ、自分の好きなことは自分で決めていいんだ」と思えるようになったのです。

確かに、いろいろと周りの人は相談にのってくれるし、アドバイスもくれます。
しかし、少し意地悪く考えると、これらがどんなに自分に心地いい言葉でも、本当に人は人のことを考えられるのでしょうか? 結局は、自分の経験や体験、価値観からくる言葉ではないのでしょうか?

こんなことを思わされ、「最後に自分のことを決めるのは自分であるべき」という考えにたどり着きました。(当たり前だったらすみません)勿論、今でも物事を決めるときの指針にしています。


そんな私は社会人になった今でも、現実世界でつらいことがあると、本やマンガの世界に「逃げ込み」ます。

確かに、心の強い人や、確たる信念がある人なら、このような行為は「現実逃避」として批判するでしょう。

でも、私は本やマンガの登場人物たちとの出会い、また、それらを通じた現実の人との出会いが支えになって生きてこられました。

だから、「たとえ逃げでも、救いになって、自分の存在をとどめておいてくれるなら、それでいいじゃないか」と思います。

更に言えば、インターネットが明らかにしたように、人が何を楽しみに考え何を支えにするかは、本当に多種多様なのです。

「本やマンガ、ゲームなんて、二次元の逃げの世界だ」。
周りからこんな空気や価値観になんとなくさらされている人こそ、むしろ二次元の世界に熱中してほしい。だってその先にこそ、新たな出会いがあるのだから。

書いた人:bookish