「ちびまる子ちゃん」はどうして人々に受け入れられるのでしょうか。
現在、日曜6時のお茶の間の定番のテレビアニメとして存在し、「サザエさん」や「ドラえもん」同様に様々な年齢層の人に親しまれている作品として有名です。
さて、さくらももこにはもう一つ別の顔があることをご存知でしょうか。
彼女は、エッセイ作家のしての一面も持ち合わせています。
国民的漫画「ちびまる子ちゃん」が広く受け入れられる魅力の背景に、作品のルーツとなるエッセイでのエピソードがあるのではないでしょうか。今回は、さくらももこのエッセイと「ちびまる子ちゃん」を取り上げ、「ちびまる子ちゃん」の世界観やその魅力に迫っていきます。
リアリティのある創作である「ちびまる子ちゃん」
「ちびまる子ちゃん」は、作者の子ども時代を投影した作品ですが、創作された設定がたくさんあります。例えば、実際のさくらももこの家庭は八百屋ですが、作中ではそのような描写はなく、まる子の父であるヒロシの職業が明かされておりません。しかしながら、父ヒロシの性格や振る舞いは実際のさくらももこの父をモデルにした人物として描かれています。
このように、「ちびまる子ちゃん」は創作としての物語の中に作者の体験した出来事や実際の人物が描かれる作品となっています。「ちびまる子ちゃん」同様にアニメがお茶の間に受け入れられている「ドラえもん」「サザエさん」「クレヨンしんちゃん」とは、大きく異なる点でしょう。
「ちびまる子ちゃん」初期の作品は、さくらももこの実際のエピソードにも通じる話が多くなります。さくらももこは、漫画以外にもエッセイを数多く発表しており、その中で繰り返し自身の子ども時代のできごとを書いています。
そうすることで、「ちびまる子ちゃん」作品の根源となる作者自身の思想や1970年代の生活の様相が色濃く表れるのです。紙芝居屋さんやフェスタしずおかをまる子が楽しむ話などが例として挙がるでしょう。
では、さくらももこのエッセイは「ちびまる子ちゃん」にどのような影響を与えているのでしょうか。
さくらももこのエッセイの中のエピソード
ここでは、さくらももこのエッセイの中からいくつか印象に残っているエピソードを紹介していきます。
〇「メルヘン翁」
エッセイ集『もものかんづめ』に掲載されているエッセイで、幼いころに祖父が急死したときのエピソード。急な事だったので、祖父の口を閉じさせるために、豆しぼりの手ぬぐいを誰かがつけさせるとメルヘンチックな姿になってしまい、姉とさくらももこが大笑いします。この話では、生前の祖父がボケたふりをして風呂をのぞいたり、貯金を盗んだりしていたため、さくらももこは祖父に対して嫌な感情を持っていたことが書かれています。
理想のおじいちゃんとしての「友蔵」
エッセイに出てくる人々には、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターと同名の人物がいますが、そのキャラクター性は大きく異なります。例えば、漫画では優しくて孫に甘いおじいちゃんである「友蔵」は実際には嫌な奴でした。遺体を目にして家族が大笑いする状況なんてそうそうありませんよね。
メルヘン翁のエッセイが発表された後、家族である祖父に対する描写が酷すぎることで苦情がきたようですが、さくらももこは、『もものかんづめ』というエッセイ集の「その後の話」にて「私は爺さんの事は好きではなかったが、自分の描いている漫画に出てくる爺さんは好きである。」と書いています。さらに、漫画の友蔵に対して、「まる子をかわいがるのは、私の憧れと理想とまる子への想い入れが混じっているのだと思う。」と追記しています。
まる子は時々サボりや悪さをするが、基本的にはみんなから愛されるキャラクターとして描かれています。そして、作中、お母さんに大目玉を食らうことがしばしばありますが、どんな時でも味方をしてくれるおじいちゃんがいますよね。友蔵とまる子の関係をうらやましいと思った人もいるのではないでしょうか。「ちびまる子ちゃん」では定番の掛け合いの中にも、作者の理想が内包されているのです。
ツッコミ不在の空間をまとめあげる鋭いナレーション
さくらももこのエッセイは独自の切り口で語られます。
身近にありふれた出来事に対しても、繊細な視座で観察し、シニカルな笑いを誘うエッセイ作品にまとめあげていきます。エッセイでは鋭い観察眼とセンスのあるツッコミが目立ちますが、これは、「ちびまる子ちゃん」にも通じます。
アニメの「ちびまる子ちゃん」を思い浮かべてください。登場人物がなにかボケたことを発言すると「それは〇〇である」なんて声が入るシーンがよくありますよね。声優キートン山田のナレーションによるツッコミを用いて、作中の出来事に対してコメントしていく手法をとっていますが、これはアニメ版だけの演出ではありません。
漫画の「ちびまる子ちゃん」でも似ている手法がとられているのです。キャラクターの突飛な発言と同じコマの中に登場人物ではないナレーションからのツッコミが入ります。これが痛快で心地よい。遠慮がまるでないのです。
さくらももこはナレーションを用いて自分が生み出したキャラクターたちへ鋭い指摘を浴びせていきます。他の作品だと、誰かがとぼけたことを発言したら別のしっかり者のキャラクターがそれを指摘する役割を担うことが多いのではないでしょうか。
しかし、「ちびまる子ちゃん」の場合はツッコミ不在でも成り立つのです。キャラクターの知らないところで作者がツッコミを入れることができるので問題ありません。そのため、キャラクターが暴走しても収拾がつきます。
もちろん、各キャラクターの性格は大きく異なるので、大体の役割はありますが、状況によって柔軟に変化します。上の図だと、しっかり者であるように描かれることの多いまる子のお姉ちゃんに向けて、指摘が向けられていますよね。
さらに、ナレーションの鋭い指摘自体がオチに笑いを加えることもあります。「ちびまる子ちゃん」におけるナレーションの活用は、作品の物語の進行を補足する以上の存在感があるのです。そして、この容赦ないツッコミこそ、さくらももこのエッセイ集でのノリに近いものがあるように感じます。
これは、さくらももこの作品全般にまつわる手法ではありません。例として、さくらももこ自身の青春時代を描いた「ひとりずもう」を紹介します。
この漫画は、かつてまる子だったさくらももこの青春時代が舞台となります。上の図では、吹き出し外のセリフはあるものの、漫画の登場人物であるさくらももこ自身の胸中が語られる場となっています。このように「ひとりずもう」の中では、「ちびまる子ちゃん」のような鋭いナレーションは入らずに物語が進行します。
ちびまる子ちゃんの魅力とは
「ちびまる子ちゃん」は様々な年齢層の人に受け入れられています。「国民的アニメ」「国民的漫画」として親しまれる作品には、家族を扱ったものが多くありますが、「ちびまる子ちゃん」がその中でも埋もれないほどの魅力はなんでしょうか。
私は、エッセイ漫画の形を用いた作品の構造が作品を魅力的にしているのではないかと考えます。アニメでの「サザエさん」「ドラえもん」では、年長の人物や先生が威厳を持っていて、子どもが怖がる描写がたびたび繰り返されますが、「ちびまる子ちゃん」は、アニメ・原作どちらもその要素は薄いように感じます。
例えば、サザエさんでは、カツオが父の波平や学校の先生を怖がる様子が描かれています。また、ドラえもんにおいても、のび太にとってママやパパ、先生は怖い存在です。そして、それらのアニメでは、各家庭の年長者や先生がカツオやのび太を怒鳴りつけるシーンが定番となっています。
しかし、ちびまる子ちゃんにおける「先生」「年長者」はそうではありません。まる子の先生である戸川先生は、温和で話のわかる先生として描かれています。そして、家族の中で年長である友蔵もまる子を怒鳴りつけることなどない穏やかな人物ですよね。
戸川先生や友蔵のキャラクター設定には、さくらももこの願望が詰まっているのですが、読者にとってもまる子をかわいがってくれる安心できる人物となっています。
加えて、さくら家の中では、母がまる子を叱る役割を担うことが多いです。ですが、威厳がある人物というわけではありません。まる子の悪さに応じて叱るという具合で、まる子が対等にお母さんに口答えするシーンもよく描かれています。この場合は、さくらももこのエッセイに出てくる「お母さん」像がそのまま反映されているのだと考えます。
また、「ちびまる子ちゃん」は話数を重ねるにつれ、エッセイ色が薄くなり、個性際立つキャラクターが活躍するようになります。そんな中で、彼らは自由に各々発言していきます。時には、彼らのやり取りにナレーションによる鋭いツッコミが加わり、やや毒のある笑いを生み出します。
個性豊かなキャラクターが活躍する点では、「クレヨンしんちゃん」と「ちびまる子ちゃん」はある種共通する部分があります。ですが、ナレーションによって生み出される独特のシニカルな「ちびまる子ちゃん」の笑いと、天真爛漫なしんのすけに振り回される周囲の人物から生まれる「クレヨンしんちゃん」の笑いは、全く別物で、それぞれの魅力があるように感じます。
このような作品の構造によって、「ちびまる子ちゃん」は唯一無二の作品となりました。「ちびまる子ちゃん」はコミックエッセイではなく、創作の中に作者の体験談を加える手法をとります。さくらももこのエッセイを読むと、ちびまる子ちゃんの世界観とは異なる点が目立ちます。彼女のエッセイにはやさしい祖父の姿はありません。そして、先生や家族にあまり褒められない地味な少女として自身のことを記述している印象を受けました。
ですが、「ちびまる子ちゃん」では正反対です。まる子は忘れ物が多かったり少しずるい点があるものの、基本的には周囲の人物に愛される人物として描かれています。特に、友蔵はまる子が思い切り甘えることのできる理想的な人物。
作中のまる子は友蔵から無条件の承認を受けます。さくらももこの描くまる子は安心して見ていられますが、それは、まる子がひどい目にあうことはあっても、彼女を見捨てる人がいないからではないでしょうか。
そして、多くの場合、作中でまる子に対して毒のある厳しい指摘をする役目はナレーションです。まる子の周囲の人物ではなく、ナレーションを用いることで、さくらももこ独特の鋭い口調もシニカルな笑いに昇華されます。
「ちびまる子ちゃん」の魅力は、以上のような理想郷としての創作と現実のバランスの心地よさであると考えます。このような絶妙なバランスによって、「ちびまる子ちゃん」は多くの人に受け入れられる作品になったのではないでしょうか。
ぜひ、「ちびまる子ちゃん」と合わせて、さくらももこのエッセイを読んでみてほしいです。きっと、新たな魅力を発見できるでしょう。
書いた人:千鳥あゆむ