DON'CRY -ドンクライ-

アニメやマンガ、ゲームに小説、音楽など、「作品」によって孤独から救われて生きている人のためのメディア

ロンドンで小袋さんに謝りました。DON'CRY、今後のガイドライン

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ロンドンで小袋成彬さんにお会いし、謝罪をしました。

経緯は、4月28日に公開した記事、「『カルチャー顔』が好きで好きで好きで。モトーラ世理奈を見ると胸が痛くなる」における不適切な表現について、インターネット上で多数のご指摘をいただいたことから始まります。

小袋さんからも、ツイッターでご指摘をいただきました。

さらには、小袋さんからこのお言葉をいただき、叶うことならば直に会って謝らせて頂きたいという一心でロンドンに向かいました。

2日間という、ごく短い滞在期間に限界があることは感じながらも、小袋さんが仰る「すべての人々がもれなく美しいこと」を、少しでも理解できるようになりたいと思いました。

ロンドンの街で気づいた「標準的なハーフ顔」という表現の問題

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なぜ小袋さんが「ロンドンまで謝りに来い」とおっしゃったのか。最初はその真意を十分に理解できていなかったかもしれません。

しかし、ロンドンに到着して街を歩くと、まず「標準的なハーフ顔」という表現がいかに問題があったかを実感しました。

たとえば地下鉄に乗った時、本当にたくさんの人種の人々が乗っていました。私の印象では、私のようなアジア系の人もいれば、中東系の人もいるし、ヨーロッパ系の人も、アフリカ系の人もいるように思えました。あくまでそれはロンドンの日常的な風景でしたが、私には、日本では見たことのない風景でした。

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さらにロンドンの街を歩いていて、不意に賑やかな集団が横を通りました。幼稚園か保育園児たちです。同じように、子どもたちの人種も様々でした。

「なんというものを書いてしまったんだろう」

その上で、そう後悔せずにはいられませんでした。

「標準的なハーフ顔」という言葉を、私はあの記事で無意識的に使ってしまいました。

しかしながら、そもそも、「ハーフ顔」という言葉自体、地下鉄にいた大人たちにも、通りを歩いていた子どもたちにも、決して言えない言葉でした。

「あなたはハーフ顔ですね」なんて言ったら、とんでもないことです。「ハーフ顔」という言葉は、多様性をからかうような言葉である、その感覚が初めて理解できました。

さらに言えば、「標準的」とはなんだ、とも。そもそも私が標準を決めること自体、間違っているのに、それにさらに「ハーフ顔」という言葉までくっつけてしまった。

あまりにも不適切な表現でした。自分が恥ずかしいです。

小袋さんにスタジオでお会いして

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お会いして謝罪をし、お許しをいただき、まず上に書いたようなことを話しました。緊張と申し訳なさで、しどろもどろになっていたと思います。

それでも、私の浅学を笑うことなく、小袋さんが仰ったことが今でも忘れられません。

「ロンドンに来ないと、この感覚はわかりませんよね。でも、日本が悪い訳じゃありません。」

「僕は、この表現は世界的にダメです、と押し付けるつもりはありません。正しさは、時と場所によるからです。大切なのは、相手を敬う心を忘れないことです。」

それから、小袋さんはスタジオのスピーカーで、あるアーティストの曲を聴かせて下さいました。

私はスピーカーに詳しくないので、素人感想になってしまい恐縮なのですが、とにかくもの凄い「存在感」でした。歌や演奏もさることながら、何より録音されたスタジオの空気感やら空間の広がりまで感じられるようで、そのアーティストの方が目の前にいるようでした。私のような素人でも、そう感じられたのです。

他者を敬う心が欠けていた

「アーティストはここまでこだわって作品を作っているんです。」

曲が終わると、小袋さんは静かにそう仰いました。そして、そう仰った空間(スタジオ)には、小袋さんが実際に使われている機材や楽器が並び、本当にこの場所で作品が作られているのだと感じさせられました。本当に、ご自身と向き合いながら、作られているのだと。

同時に、そうして作り出された作品に対し、私がいかに敬意を欠いていたのかも痛感しました。

歌詞の引用ミスはもちろん、作品にまともに触れず、主観的な容姿の印象でアーティストの方々を語ってしまった。しかも、それをカルチャーメディアを標榜するメディアにプロデューサーとして関わっておきながらやってしまった。

カルチャーに逆行する、本当に不勉強で、愚かな行いでした。

その後、小袋さんが仰っていた、スタジオで爆音の『おどるポンポコリン』を聞くお仕置きを受け、スタジオを後にしました。

容姿について語ることへの問題意識

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個人を一面から(特に容姿で)語るべきではなかった

不適切な表現、そしてアーティストや作品への敬意の不足という自らの過ちを反省したとき、容姿について語ることへの問題意識が低かったのは特に反省すべき点だと考えるようになりました。

個人を一面(特に容姿という簡単には変えられないもの)から一方的に語り、主観的な結論付けをするというのは、とんでもなく問題があったからです。それこそ、イギリスはもちろん、日本でもこのことは変わりません。

例えば、私が知らない人に突然、「あなたはヒゲがボサボサだ」「目つきが悪い」「猫背だ」「だから、あなたは犯罪者予備軍だ」と言われたら、「見た目だけを根拠に、勝手な判断をしないでください!」と、とても不快に感じることに気づきました。同じことを私が他者にしていい訳がありません。

「個人というのは、存在する時点で尊重されるべきものである」

理屈ではわかっていたはずのことを、理屈でしかわかっていなかったことに、今回気づかされました。

そして、国を問わず、個人というのはその尊さを以って、人生で与えられるもの全てを引き受けて、生き抜こうとしている。その姿は美しい以外の何物でもありませんでした。

「すべての人々がもれなく美しいことを知れ」
その言葉の意味を、このとき初めて理解できました。

それなのに、人を勝手に捕まえて、容姿という一側面だけをもって判断し、それを大きなくくりの中に入れるのは、とても失礼な行為でした。

主観的な判断でしかなかった

さらに言えば、その一面的な判断さえも、主観的であることに無自覚であったと反省しています。

「こういう顔が好きな人は、こういうものも好きだろう」などど、まるで一般性を持ちうる価値として、新たに提唱しているように語ってしまった。

しかし、それは全くの主観でしかなかったし、それを「#カルチャー顔」というハッシュタグまで作って広めようとしてしまった。その一面的な結論付けを、他の人もしてしまうように助長してしまった。

誰かがそうする度に、多様性は軽んじられ、他者を敬う心は失われ、個人を一面から貶めてしまう。そこまで思い至るだけの想像力を持つべきでした。

帰国後、仕事をしていて

帰国後、それらの反省点に加え、メディアの仕事をする中で、いま一度どのような表現は自分が関わるメディアのモラルとして問題があるかを考えて仕事をするようになりました。

たとえば、あるプロダクトを紹介する記事について、そのプロダクトと開発者は切り離されて話が展開しているか、懐疑的になるにしても、そのプロダクトをいま使っている人にも納得できる話をしているか、などです。

また、自分が関わり合うスタッフについても、相手が望んでいない形でコミュニケーションしていないか再考していきました。

たとえば、自分が深く関わるライターさんについては、「1~2年お付き合いして、こういう編集でやってきましたが、それで本当に大丈夫でしょうか? こういう編集の方が実は求めていた、ということはありませんか?」と、一人一人話していきました。

結果として、「今のやり方でフィットしている」という方もいれば、「いや、私は実はこうして欲しかったです」という方もいました。

長い付き合いがある方々でも、「この人はこういう人だから」という自分の中の主観的な判断は疑っていくべきだと今は感じています。

DON'CRYとしての今後のガイドライン

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そういった自らの変化に加え、小袋さんからの提案も受けて、DON'CRYとして今回のことを反省し、今後どのように記事を作るのか、その心構えをガイドラインとしてまとめました。

DON'CRY編集長 餅男氏とも話し合って決めたその内容は、大きく分けて2つです。

①精神性で繋がることに立ち返る

DON'CRY(ドンクライ)はカルチャーメディアを標榜しています。

しかし、恐らく「カルチャーメディア」という言葉でイメージされるメディアとは少し違った目的で存在しています。ここを先に補足した上で、書かせてください。

あくまで個人的なイメージですが、カルチャーメディアは、カルチャーという自然発生的な事象を最前線で追いかけ、インタビューや評論など、様々なアプローチを通じ、最新の情報を、そのメディアが紡ぐ文脈の上で、読者に伝えることが目的だと思っています。

対して、DON'CRYは「繋がり合うこと」が目的です。最新の事象を伝えることでも、評論をすることでもありません(そういうことを試みた時期もありましたが、最終的な目標はやはりこちらでした)。

「作品は個人にとっての救いである」という考えの下、書き手が作品に救われた、あくまで個人的な体験を記事として発信し、同じように感じている人がオンラインやオフラインで繋がり合うことが目的です。

(過去開催のオフラインイベントの例)

doncry.hatenablog.com

doncry.hatenablog.com

そのため、DON'CRYでは「辛かったときに、作品に救われた」人であれば、それ以外のことは一切関係なく、友人同士になれるかもしれないと信じてきました。

しかし、だからこそ、最も発信してはいけなかったのが今回の記事だと深く反省しています。

精神性とは関係ないところで他者を判断し、本当に、自分が依って立つべき信条を、自分で貶めたのだと恥ずかしい気持ちでいっぱいです。

今回の記事でDON'CRYを通じて友人になった方々からも多くのお叱りをいただきました。そして同時に「今回のことでDON'CRYがなくなったら、それが一番残念だ」とも言っていただきました。

だからこそ、自分の失敗を恥じ、反省をし、本来DON'CRYが掲げてきた「精神性で繋がる」ことに立ち返りたいと思います。

DON'CRYが精神性でフラットに繋がれる場所になれるよう努力します。

②他者を敬う心を大切にして表現をする

今回のことで、この言葉はDON'CRYが以後言うべきではない、というものを考えてきました。

例えば、「ハーフ顔」や「外国人風ヘア」などの表現は、DON’CRYでは多様性を軽んじる表現と認識し、以後使わないことに決めています。

しかし同時に、小袋さんのこの言葉を思い出します。

「僕は、この表現は世界的にダメです、と押し付けるつもりはありません。正しさは、時と場所によるからです。大切なのは、相手を敬う心を忘れないことです。」

どういった表現が問題かを考えることは、もちろん大切です。その上で、DON'CRYでは根本にある他者を敬う心をまず忘れないようにするべきだと感じました。

だから、DON'CRYとしては、表現としても他者を敬う心を忘れずに、精神性が込められた作品をベースに語ることを、まず大切にしたいと思います。

以上の2点を基本的な記事制作のガイドラインとして、編集部の参照先にしていきたいと思っています。

「世界を広げて、自分を深めることが大切です。」

ロンドンでスタジオを去る前に、小袋さんはそう仰いました。

短い渡航の間、私の思慮の浅さで学べたことはとても少ないと思います。そのため、いただいた言葉を胸に刻み、他者を傷つけてしまったことを忘れずに、今後も学び続けていきたいと思います。

最後に改めて、記事で身勝手に言及してしまった方々、誠に申し訳ございませんでした。

この記事にお時間を割いて読んでくださり、感謝いたします。ありがとうございました。

(執筆:野田翔 / 編集:餅男