「ロボットアニメはオワコン」
そう言われはじめて、何年が経っただろう。
00年代後半、ロボットアニメは萌え系アニメブームに覇権を奪われ、80年代90年代の全盛期と比較して、大幅に作品数が減少した。
ロボットアニメのスレッドを開けば、出てくるのは、
「10年代を代表するロボットアニメはいつになれば誕生するのか?」
「ロボットアニメは死んだ。」
そんな言葉ばかりだ。
でも、そんなことはもうどうでもよかった。
僕はロボットアニメが大好きだったのだ。
それはもう、今考えると、どうかしてるくらい好きだった。
自作のロボットアニメの脚本をアニメ制作会社に送り続けたり、日常アニメ全盛期の「京都アニメーション」のショップに押しかけ、『フルメタル・パニック!The Second Raid』のグッズはあるか?と店員に問い詰めた(あるわけがない)
大学でロボットアニメを布教するサークル「ロボットアニメ研究会」を結成して、『交響詩編エウレカセブン』50話分を21時間かけてぶっ通しで鑑賞したりしていた。
「夢中」という言葉が一番当てはまっているだろう。
そんな僕が、この記事でお伝えしたいのは、何故そんなにロボットアニメに夢中でいられるのか?
アニメ好きの人の中でも、「ロボットアニメ」と聞くと、少し距離をおいてしまう人もいるはずだ。
だからこそ、ここで今思いをぶちまけたい!
今の時代だからこそ、ロボットアニメを見てほしいのだ!
ロボットアニメとはなにか?
「ロボットアニメとは?」と聞くと、必ず浮上してくるのが、この反応。
「え? ロボットって、ドラえもんのこと? アトムのこと?」
ではない。そうではないのだ。
広義の意味で言えば、たしかにロボットアニメとは、文字通りロボットが登場するアニメのこと。
でも、今回の記事でいうロボットアニメとは「人が搭乗して、人が操作する、人型のロボット」のことだ。
一般的にロボットアニメファンが言うロボットとは、この「有人式人型ロボット」(とこの記事では名付ける)を指す場合が多い。
日本のロボットアニメ作品の中においても、このジャンルの作品数がダントツに多く、ガンダムやマクロス、グレンラガン、エヴァンゲリオンといった人気作品も、このジャンルだ。
「ロボットがかっこいい」という歴史的自明
さて、一大ジャンル「ロボットアニメ」の話。
勢いは衰えたとはいえ、なぜ今もなお多くのファンを魅了し続けるのか?
その答えは簡単である。
「ロボットがかっこいい」からである。
「そんな!それを言ったら元の子もないじゃないか!」
そんな文句を言われそうだが、仕方ない。
ロボットは文句なしにかっこいいのだ。
※ロボットのかっこよさを挙げるともうキリがないので、一目見たい方はこちらのオススメのスレッドを見てください。
かっこいいデザインのロボを語ろう:ろぼ速VIP
ボロボロのガンダムは何であんなにかっこいいの??:ろぼ速VIP
そう、そのかっこよさを喩えるならば、城島茂ではなく、木村拓也。タモリではなく、福山雅治。
もちろん、城島茂もタモリもかっこいい。でも、そのかっこよさに気付くまでは人生経験が要される。
城島もタモリも、人生の酸いも甘いも経験した後に辿り着く「一周回ってかっこいい」存在なのだ。それは木村拓哉と福山雅治とは同じ「かっこいい」でも似て非なるもの。
ロボットは木村拓哉や福山雅治と同じ、直感的に脳にくるかっこよさなのだ。
例えるなら、遺伝子がDNAむきだしにして「かっこええ!」と言っている感覚。言わば、人間としての必然的帰結だ。
人間の歴史を辿れば、人間が体感する「かっこいい」は次の3点に集積されると僕は考えている。
①巨大であること
②人型であること
③強いこと
古来より神話の中で、神々は人と同じ形をし、力を兼ね備えた存在として表現されてきた。
そして、人間は巨大なものに畏怖と尊敬の念を込め、大仏や巨像と言った大建造物を建立してきたのだ。
現代において、上記3点を備えているもの。そう、ロボットだ。
ロボットがかっこいいのは、人間の歴史的な変遷からして必然だと僕は思うのだ。
ロボットアニメが内包する矛盾
しかし、ロボットアニメの魅力を語る上では、「矛盾」の話をせざるを得ない。
そう、たしかにロボットは圧倒的にかっこいい。
しかし、同時に、圧倒的に「非現実的」な存在でもあるのである。
まず、ロボットは、人型である必要性がない。
合理的に考えて、陸上で戦闘するならば、二足歩行よりもキャタピラの方がいいし、敵の基地を襲撃するのであれば、戦闘機型にした方が効率がいい。
ましてや、顔をつける必要なんて絶対にない。
人型というのは、現実離れした、非常に非合理的なデザインなのだ。
また、人が搭乗して操作する必要性も全くと言ってない。
遠隔操作でロボットを動かせばいいのだ。
わざわざ人間がロボットの中央部に居座り、命を失うリスクまで背負って、戦場に出ていく必要性はない。
このように、ロボットアニメは、素人でも合理性をつつけるような設定の上、成り立っていると言えるのだ。
ロボットの矛盾を物語上で合理化する
でも、ロボットアニメがすごいのは、こういった矛盾に向き合おうとしたところだ。
例えば、いわゆる魔法モノのファンタジー物語では、「魔法が使える」ことを当然の前提としている。
炎の魔法が燃焼現象を生み出し、火を具現化する仕組みが物語上で説明されることはない。
それに対し、ロボットアニメは、ロボットが登場する矛盾を物語上で合理化しようとしたのだ。
その先駆けが、『機動戦士ガンダム』であった。
当時アニメは子供の観るものであるという認識があった時代に、徹底的にリアルな戦争を描こうとした本作。
リアルを求められたのは、物語の主材である「ロボット」も例外ではなかった。
つまり「リアルな戦争において、なぜ人型のロボットが出てくるのか?」
この点を突き詰めないことには、ロボットを物語の中に出せないというのだ。
そこで、編み出されたのが「ミノフスキー粒子」という設定だ。
高度なテクノロジーが発達した世界では、レーダー兵器を無効にする技術(ミノフスキー粒子)が開発される。
すると、レーダーが使えない戦場では、兵器と兵器をぶつけ合う白兵戦が要される。
そして、白兵戦に特化した機体として、「人型」のロボットが採用されたという筋書きである。
つまり、ロボットアニメはその物語の中で、非合理的な存在であるロボットを、合理的な存在に補完しようとしたのだ。
これが他の物語のジャンルには見られない稀有な例である。
物語上必然的な「嘘」を「本当」にしようとしたのだ。
しかし、僕は別に「ロボットの登場」をこじつける論理に心を動かされているわけでは決してない。
僕が好きなのは、その背景だ。
正当化するための大掛かりな論理を用意してもまでも、「物語の中でロボットを出したい!」という願望がそこにはあるのだ。
すなわち、非合理的だと知りつつも「ロボットを出したい」と思う感情が上回るのは、ロボットが「当然としての美」に位置付けられることに他ならない。
ロボットの矛盾を勢いで解決する
さて、一方で、ロボットアニメの中には、その非合理の欠如を無視して、とことんまで非合理を追求した作品も存在する。(ちなみに前者をリアルロボット、後者をスーパーロボットという)
例えば、『天元突破グレンラガン』や『勇者王ガオガイガー』などもそういった作品の一つだ。
「なぜ兵器に顔がある必要があるのか?」
グレンラガンは、そういった現実的な質問をあざ笑うかのように、顔が二つのロボットを登場させる。
「なぜ兵器に派手な色が塗装される必要があるのか?」
ガオガイガーの胸には大きなライオンの顔が、肩には新幹線が貫いている。
もちろん、そこに理由なんてない。
それがかっこいいからなのだ。
つまり、ロボットアニメは、今に至る歴史の中で自己矛盾を認識した上、一方では論理によって非合理性を補完し、一方では非合理性を極限まで貫き通していることがわかる。
それは「合理性を超越した絶対的なかっこよさ」がロボットにはあるという何よりもの証明だ。
その合理性を超えたかっこよさは「ロマン」とでも呼ぶべきだろうか。
こうしたロボットアニメの作品を見ていると、
「自分がかっこいいと思ったものを、かっこいいと叫べ!」
そう言われているような気がしてくるのだ。
現実的ではないだとか、合理性がないだとか、そういうものは関係がない。
自分がカッコいいと思ったものを信じ、それを貫き通せ。
自分に沸き起こった「好き」の筋の通し方、そして極限にまで「好き」を突き詰めれば、誰かの心を熱くさせることができる。
ロボットアニメはこの乾ききった現実にロマンを与えてくれる作品なのだ!
Pepperという名の現実をゴルディオンハンマーで打ち砕く
最近は何をするにしても合理性という名の現実が押し寄せる。
「〜した方がいい」「〜した方が楽できる」「今は〜する時代なんだよ」
あたかもこちらが正解であるかのような顔をして彼らはやってくる。
そんな合理性の波と一緒に、あたかも自分が「本当のロボットだ」としたり顔をしている奴がいる。
Pepperだ。
「アニメで描かれていたのは、間違えた未来だよ」
「僕のようなスマートでコンパクトなロボットが本当の未来さ」
Pepperは僕たちに語りかける。
「あんな子供騙し、見る必要なんてないよ」
「現実からしか未来は作れないんだよ」
もちろん、実際に彼らはそんな言葉を発しない。
しかし、彼らの無機質な顔、洗練された白色のボディーはそんな言葉を語っているように聞こえた。
それはロボットアニメが好きな自分とは裏腹に、心の奥底に閉まっていたロボットアニメの限界を感じてしまっている自分が映し出されているようであった。
そう、僕の大好きなロボット「有人式人型ロボット」は、案の定、現実に取り残された嘘っぱちの存在になってしまった。
でも、心から思う。
「Pepperはかっこ悪い!」
僕の知っているロボットとは決してちがう。
ロボットはもっと大きくて…
強くて…
カッコよかったはずだ!!!
「こうあるべきだ」という閉塞感も。
「こうしないといけない」という義務感も。
僕たちの「かっこいい!」でPepperごと吹き飛ばせばいい。
この時代に時代錯誤な「ロボット」を求める理由は、合理性を超える強い感情が必要なため。
そうした一種の感情のバグが、閉塞感のあるこの現実を切り開くと信じているからだ。
僕たちのロマンで、僕たちのゴルディオンハンマーで、目の前の現実を打ち砕く。
ゴルディオンハンマーとは勇者王ガオガイガーに登場するハンマー型の武器だ。
相手に釘を刺しこみ、ハンマーで打ち込む必殺技「ハンマー・ヘルアンドヘブン」。
武器をハンマーにする理由も、釘を刺す理由も、そんなことはどうでもいい。
いつの時代も最大の敵は、弱気で後ろ向きな自分だ。
そんなときは自分の信じた「かっこいい!」を信じるのだ。
この時代だからこそロボットアニメを見る理由は、そこにある。
今このメディアDON'CRYでは、激画団という学生アニメーション制作集団をクラウドファンディングで応援している。僕も支援者の1人だ。
『空中軍艦アトランティス』。アマチュアだけでつくるオリジナルロボットアニメだ。
停滞しつつあるロボットアニメ界に何かが起きるのではないか?
そんな予感を感じさせる、気概を持った若き野武士のようなクリエイターである。
ロボットアニメの今後も含めて、彼らの活動を今後も追ってゆきたい。
書いた人:通りすがりのロボアニ好き
※激画団の活動はこちらから。