DON'CRY -ドンクライ-

アニメやマンガ、ゲームに小説、音楽など、「作品」によって孤独から救われて生きている人のためのメディア

孤独や寂しさの正体とは? DON’CRYは何故生まれたか

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初めまして、編集長のノダショーと申します。

さて、この記事では、
「DON’CRY (ドンクライ)って何をするメディアなの?」
「何がしたくてやるの?」
という部分を、お話したいと思います。

早速ですが、このメディアの目的について、結論から言うと、

ぼくたちメディアのメンバーのような孤独を感じているオタクな人々が、生きていて良かったと救われる居場所を作ること」です。

 

孤独と寂しさは違う

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しかし、孤独孤独と言うけれど、そもそも孤独って何なんでしょうか? どういう状態なんでしょうか?

それが分からなければきっと、自分たちを元気づけたり、生きていて良かったと思うなんて夢のまた夢です。

だから、考えてることを少し話させてください。

まず、僕は最低限、「孤独」とは、「寂しさ」や「落ち込み」とは違うと考えています。

例えば、こちらのインタビュー記事。

www.doncry.net

この方も仰っていましたが、男性ならキャバクラへ行けば、寂しさは紛れるでしょう。励まされることで、落ち込んだ状態からも立ち直れるかもしれません。

でも、孤独は癒えません。

それは、
人間同士は完全に理解しえない存在である
という前提があるからだと思います。

どんなに好きで仲良しでも、同じ人生を生きていないし、生きることはできない。
だから絶対には理解出来ない。

 

絶望的な孤独と、浅い孤独

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仮に、それがもっとも深い、「絶望にも近い孤独」だとします。では、対する「浅い孤独」とは、なんでしょうか。

それは「他者に自分の存在価値を認められない」「分かってもらえない」状況ではないでしょうか。

相手がそこにいるのに、言葉が通じない。分かってもらえない。そういう状態が続けば、例え人の中にいても孤独は感じるはずです。

 

だからこそ、実家に暮らし家族と一緒に住んでいる人でも、「アニメなんか見てるとダメな大人になるからやめろ」などと、自分の趣味を理解して貰えない時は孤独を感じるし、「これが本当は好きなんだけど…」と、自分の本当に好きなものを友達に言えない人もまた、孤独を感じてもおかしくないはずです。

オタクは孤独を感じやすい

更に言えば、このメディアが題材にするようなアニメやマンガ、ゲームといった「一人で完結しがちな趣味」を心の友として持つオタク気質な人たちは、もともと他者に自分の存在価値を認められにくい性質を持っている可能性が高い。

例えば、僕は中学時代、アニメやマンガを沢山知っていたり、ゲームのレベルが高かったりはしましたが、勉強が出来るとか、コミュ力が高くて友達が沢山出来るとか、部活でレギュラー取れるくらい運動出来るみたいな、明確な何かが出来る訳ではなく、得意にはなれませんでした。それを認めてくれる人は、残念ながらいなかったんです。

その点でいえば、サッカーや野球をしている方が、体力もつくし、コミュ力もつく。
わかりやすくて、認められやすい。日本という国は、残念ながら体育会系に親切に出来ていたりします。

そして対する、オタク気質な人間は、体育会系リア充に比べて、ガタイは良くないし、コミュ力も低い。趣味も理解されにくい。

結果、どうにも他者に自分の存在価値を認められにくい。だから、なおさら孤独を抱えやすいのだとおもいます。

だから繋がることができる

でも、これまたそういう僕たちにこそ共通すると思いますが、素晴らしい作品に出会えた瞬間には、そんなことは関係なく、孤独を忘れさせてくれたり、凄いものでは、自分の価値が肯定されたような気持ちになることさえある。

そういう存在があることで、救われ、生かされる瞬間がある。

そして、そういうものに救われていることが分かっている人同士であれば、例え、完全に分かり合えなくても、お互いを肯定することが出来るんです。

好きな作品が同じなら、境遇を話せるかもしれない。好きな作品が違っても、「俺(私)はこれに救われているけど、彼(彼女)はこれに救われているんだな」と理解を示すことが出来る。そこにお互い興味を持ち、歩み寄ることも出来るかもしれない。

だとすれば、絶望レベルの孤独には立ち向かえなくても、浅い孤独であれば、僕たちはポジティブに立ち向かえるのではないでしょうか。

 

僕らが孤独と向き合うために

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(ドンクライ初イベント「アニメとみんなと私」より)

そんな中でこのメディアは何をするのか。

冒頭にも書きましたが、このメディアの目的は

ぼくたちメディアのメンバーのような孤独を感じているオタクな人々が、生きていて良かったと救われる居場所を作ること」です。

大げさかもしれませんが、こういうことをやる為にこのメディアは存在します。そして、そんな僕たちはアニメやマンガ、ゲームに救われてきた側面があります。

だから、記事として、僕らにとってはヒーローに近い、アニメやマンガ、ゲームなどのクリエイターにインタビューをしたり、同じ孤独を感じる読者に話を聞きに行ったり、孤独と向き合う元気を与えてくれる作品を紹介したりします。

それを通じて、「苦しんでるのは俺(私)だけじゃない」「この人はこういう作品に救われているんだ」と知って欲しい。

場合によっては、その作品を読む(観る)ことで、同じ境遇の人が救われて欲しい。

更に、その気持ちを他者と共有するために、作品に救われていることが分かっている人同士で語り合いのイベントなども行います。

 

「繋がらなくていい」は強者の理論

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このメディアを始める前から、何度も「孤独な人は繋がらない」「繋がる必要なんてない」という批判を受けました。確かにそういう人もいると思います。

でも、果たして孤独を感じる人が、本当にみんなそうなのでしょうか?

僕は違うと思います。

「繋がらなくていい」人とはつまり、自己完結出来る、強い人です。そういう人はそもそも孤独をポジティブなものとして受け取れる。

一人が楽しい、むしろ一人がいい」という人です。

例えば、研究活動や創作活動を行う人は孤独の価値を受け入れていますし、孤独を昇華できています。また、そういう人には、一人であること、繋がらないことの価値や意義を訴求するメディアが他にあります。

例えばウェブメディアでいれば、「HUFFPOST」の孤独特集とか、「ROOMIE」とか「冷凍都市でも死なない」とか、「Web独り者」はそういう側面があると思います。

でも、多くの普通の人にはそれができません。僕らもそうです。

「今日から毎日ブログを書いてみて」
「何かを研究してアウトプットするんだ」

そう言われても、残念ながら続かない。

孤独を昇華できないんです。

できないから苦しんでいるんです。

誰かにわかって欲しい、認められたい、でもそうしてもらえない。

だからこそ、苦しみに溜まり溜まった毒を吐く人がいる。

そして、吐けない人は他人の顔色を伺って、「後出しじゃんけん」で他人に上手く合わせて生き、本当の自分なるものを言えない、または失い、苦しんでいくのだと思います。

そんな人や苦しみに寄り添いたいと願うメディアが、僕らのメディアです。

 

何でこんなことするの?

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手前味噌で本当に恐縮ですが、最後に、自分の話を少しだけさせていただければと思います。

そもそも僕は、生きることは辛いことだと思うような悲観的な世界に生きてきました。

学校にも家にも居場所がなかった

その理由は、明らかに高校時代にあります。その頃、ぼくは学校にも、家にも、居場所がありませんでした。

最初は割と友達は多い方だったかと思います。

でも、「なんかアイツむかつく」という理由から、ある日友達みんなからハブられ、ぼっちになりました。

朝、いつも通りに登校してクラスに入り、座っていた親友(だと思っていた友達)に「おはよう」と言ったら無視されました。気付けば、他の友達も、クラスメイトも、他のクラスの人までも、僕を無視するようになっていた。

悔しいとか怒りとか、そんな感情は一切湧かず、ただただ衝撃で、自分の感情が今どうなっているのかも理解できなかった。悲しさとか恥ずかしさに手が届くようになったのは、数週間後のことです。

それからはクラスに居場所がないから、昼休みには一人廊下で弁当を食べ、体育の時間には端っこで壁とバレーボールをするような、目も当てられないような日々を過ごしました。

加えてイジメの定番よろしく、ネットの掲示板(前略プロフィール)にあることないこと書かれて、歩いてるだけでクスクス笑われる。誰かが笑っているだけで、自分が笑われているんじゃないかと、いつも怯えいていた。

そして、家に帰っても居場所がなかった。

昔から男には異常に厳しい家庭で、九州男児で高学歴・一部上場企業の部長だった父からは、90点を取っても、「何で10点分も間違えてるんだ!」と叱られ、泣くと「男がそんなことで泣くんじゃない!」と怒られ、欲しいモノは殆ど買って貰えませんでした。

でも、姉や妹にはベタベタで、怒らないどころか褒める与える。嫉妬で頭がおかしくなるかと思った。

そんな家庭において、「学校でいじめられています。もう行きたくないです。」なんて言えるわけもなかった。

学校をサボれば家に連絡が行って怒られる。怖い。だから嫌でも学校に行かなきゃいけない。

その上、精神的なプレッシャーからかは分かりませんが、きつ音になりました。
何かを言おうとしても、「あ、あ、あの、ぼ、ぼくは、こ、こ、こうおもって、て」みたいな感じです。授業中に当てられるのは本当に地獄でした。

そんな環境は、きっと客観的に見たらどうしようもない状況で、逃げ場のない絶望で、自殺を考えてもおかしくなかったのかもしれません。

作品に救われて生きてきた

でも、それでも、そんなムリゲーみたいな世界にも救いはあった!

それが、誰かが生み出してくれた作品だったんです。

僕は、音楽や絵や、物語によって、 辛い夜を越えさせてもらった。

アニメやマンガやラノベやエロゲー、ネトゲにニコ動の作品たちが、家に帰ってからの僕の希望だった。

そして何より、mixiのオフ会には本当に救われました。

「お前な、学校なんて3年間しかねぇんだ。後で振り返れば一瞬。だから気にすんなよ」
そう言ってくれる大人たちがいた。

「お前さ、どこで飯食ってる?」
「お、おれ、廊下…」
「俺、トイレw 勝ったw」
「いや、勝ってない、だろw」
そんな掛け合いが出来る、他の学校でいじめられてる奴がいた。

そういう人たちと、作品のことを語り合える関係があったから、僕は何とかその時期を生き延びることが出来た。献身的な介護?によってきつ音も少しずつですが、良くなっていった。

そして、そんな僕たちが大好きだったものは、有名だったり、ネットで10人もファンがついていなかったものだったりしました。有名如何に関わらなかったということです。

だから僕は、どんな人やモノであっても、誰かが価値を見出してくれると信じています。

誰かの辛い瞬間を、誰かの作った何かや、誰かの一言が、救ってあげられると本気で思っています。

そして、このメディアは、その架け橋になりたい。

ぼくたち含め、孤独な人々にとって、小さな救いが一つでもあるように。

 

”コンテンツじゃない、作品なんだ”

簡単ですが、以上が僕のDON’CRYに対しての想いです。

作品が「コンテンツ」なんて薄っぺらく呼ばれてしまう時代ですが、作家の先生方が魂込めて作った「作品」の力というのはそんなものじゃないと思います。

そして、だからこそ、このメディアでは全然旬じゃない過去の作品、無名の作品も取り上げたいと思っています。

人間が人間である以上、伝え方は変わっても、本質的に価値あるものというのは、時代が移り変わっても変わらないと思うからです。

長々と読んでくださって、ありがとうありがとう。

それでは、DON`CRYを、これからなにとぞ、よろしくお願いします。

 

おまけ:大好きな作品10本

「彼氏彼女の事情」(津田雅美)
「とらドラ!」(竹宮ゆゆこ)
「ゼロの使い魔」(ヤマグチノボル)
「安達としまむら」(入間人間)
「おおかみこどもの雨と雪」(細田守)
「風立ちぬ」(宮崎駿)
「秒速5センチメートル」(新海誠)
「NHKにようこそ!」(滝本竜彦)
「ぼくのなつやすみ」(ミレニアムキッチン)
「古川本舗の音楽」

何か共通のものがありましたら、イベントなどで語れると嬉しいです。

 

文:ノダショー

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