DON'CRY -ドンクライ-

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日常アニメの最終回を観た後、部屋で一人汚ねぇ声で泣いてしまう

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この世で一番虚しくなる瞬間って、日常アニメの最終回を観終えたときなんじゃないか。

あのときの虚無感、寂寞感、絶望感っていったら他のどの感情にも代えられない。なんなんだろうあの感情。心のど真ん中にズッポシ穴を空けられた感覚。ひいおばあちゃんの葬式より泣いてるいつも。

何が悲しいって、登場人物たちに一方的に別れを告げられて、現実世界に一人取り残されること。

「なんで?俺も一緒に無くならせてくれよ? なんで俺だけ生き残ってんの?」っていうあのどうしようもない孤独感。

最終回の後、僕はいつも部屋で一人「うぇっうぇっ」って汚ねえ声出しながら泣いてるよ。部屋の隅っこで愛を叫んだケダモノ。神は死んだんだ。

 

もう二度と会えないって感覚辛すぎる

なにこの章題、辛すぎる。そうなんすよ、これなんすよ。日常アニメの最終回でいちばん辛いのって「ああ、もうこの子達とは一生会えない」っていうこの感覚。

よくあるのがこういうパターンだ。アニメの放送時間も残り10分。「あぁ、やばい終わりが近づいてきた……」って意識し出すタイミング。登場人物が「この1年間いろんなことがあったよねー」とか話し出す。

この時点でやばい。涙の水圧で涙腺が崩壊寸前。この後に、過去のシーンが回想で流れたりしたら……ん“ん”ん“ん”ドバァァァァァァァァだね。ダム決壊。

卒業式とかね、ずるいから。観る人のこともっと考えてくださいよって感じ。そんなもん見せられたら明日から生きてけないから。卒業するってことは皆バラバラになっちゃうんだよ? そんなに僕から希望を削ぐの楽しい? ねぇ? ねぇ!

思うんだけど、この「もう二度と会えない」って感覚、アニメならではのものじゃないだろうか。だって、実写の作品だと、作品が最終回を迎えてもその役者には会えるじゃん? みくりさんには会えなくても別の作品ではガッキーに会えるじゃん? みくりさんと同じ形してる有機物に会えるじゃん? 心の穴は知らず知らずのうちに塞がっちゃうよね。

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けいおん Vol.2 (出典:amazon)
でも、アニメは違うんだよ。どんなに願っても、もう平沢唯ちゃんには会えない。平沢唯ちゃんの時間は、もう進まないんだよ。

そう。次回作が制作されない限り、もう二度と僕たちは登場人物と出会うことができない。僕の見たことのない平沢唯ちゃんを、もう二度と見ることができない。アニメの最終回とは「終わりの始まり」なのである。

「そんなに寂しけりゃ何回も見直せばいいじゃん?w」って思ったあなた。あなたは知ってますか? この先に別れがあることを知った上で観るアニメの辛さを。この先に未来がないことを知りながら、かりそめの時間に現を抜かすほか生きていく術がないオタクの虚しきカルマを。

そう、いつだってオタクはピエロだ。平気な顔をしながら心の底では悲しみを押し隠している。「あぁーゆいたん今日もカワイイですねぇw」なんて言いながらニヤニヤ顔でけいおん!!を何ループもしてるオタクも心の底では泣いている。

何回観たって最終回の先の未来がない。今見てる唯ちゃんもあと12話で止まってしまう。どうしてお別れするためにアニメを見てるんだろう? こんな悲しい思いをするためにアニメを観てるわけじゃないのに。俺はただ唯ちゃんに会いたいだけなのに……。

作品のループは悲しみのループだ。なんかよくわかんないけど、これ書きながらまた涙が出てきた。

 

おジャ魔女どれみの最終回が辛すぎる 

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おジャ魔女どれみ ドッカ~ン! Vol.1 (出典:amazon)

人生で一番喪失感を味わったアニメ。視聴するにあたってはそれなりの覚悟が必要だ。ただの幼女向けアニメだと思ってヘラヘラ見てたら、明日への希望全部もっていかれるぞ?

そう、『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』は、4年間続いたおジャ魔女シリーズ最終作なのだ。最終回では、小学校生活の最後の日、卒業式が描かれる。

最終回のタイトルは、『ありがとう! また会う日まで』
この文字だけで心臓をアイスピックで刺された気持ちになるのは僕だけだろうか。

普段はお転婆で明るいどれみがこの日だけは少し様子が違っていた。

『卒業式が終わったら、皆ともお別れなんだ』。

思い出が脳裏をよぎり、どれみは言う。

『卒業式なんて出たくない。だって卒業式に出たら、皆とお別れしなきゃなんないじゃん』。

どれみは卒業式に出席せずMAHO堂に立てこもってしまう。駆けつけたクラスメイトにも応答しない。

『あたし、自分にウソついてた。本当ははづきちゃんにも、あいちゃんにも、おんぷちゃんにも、ももちゃんにも、ハナちゃんにも……ずっと傍に居て欲しいんだよ……』 

 そう、このどれみは僕たちだった。4年間毎週日曜日におジャ魔女を観ていた僕たち視聴者そのものだった。皆とお別れしたくない。どれみは僕たちの心を代弁してくれていた。

クラスメイトの説得が続く。4年間201話の集大成だ。主要キャラもモブキャラも、それぞれにどれみへの思いを打ち明けていく。僕の201話分の記憶も蘇っていく。「ああ、こんなことがあったなぁ」なんて、どれみと過ごした日々が走馬灯のように。すると同時に、一つの感情が胸を締め付ける。「もうどれみ達と二度と会えない。」やばい……終わってしまう……。

 

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おジャ魔女どれみ ドッカ~ン! Vol.1 (出典:amazon)

どれみは卒業式に出た。友達との別れを受け入れたのである。一方、最終回を見終えたこの日、僕はスイミングを休んだ。習い事なんかにいけるメンタルではなかった。当時小学4年生の僕にはおジャ魔女との別れを受け入れることができなかった。その日、布団の中で一日中泣いた。

どれみに代わる新番組は『明日のナージャ』だった。

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明日のナージャ Vol.6(出典:amazon)
気がついた時には「なんでどれみの後がこれなんだよ!!」と母親にブチ切れていた。小学4年生の男の子から少女向けアニメの新番組に対する怒りをぶつけられたときの母の気持ちというのは計り知れない。ただ、そんなことはどうでもよかった。

僕は、僕からどれみを奪ったナージャをどうしても許せなかった。いまだにナージャを見るたびにあの日の新番組予告の絶望感がリフレインしてくる。

 

でも、聞いた話によると、子供の頃は誰でも別れに対してセンチになってしまうものらしい。そういえば、僕はバラエティ番組「学校へ行こう!」の最終回でも泣いていた。「みのもんたとV6の並びを見るのはこれで最後になるのかもしれない……」なんて意味不明な理由で泣いていた。子供は終わりに対する感受性がバグっているのである。

つまり、おジャ魔女どれみがあそこまで辛かったのは僕が子供だったからかもしれない。そう思い立って、先日15年ぶりにドッカ〜ン!の最終回を観てみた。

すると、見事に過呼吸で死にかけた。呼吸をしようと思ってもできなくなって、「えうっえうっ」って出したことのない言葉を吐きながら命を繋いでいた。

脳が正常になった頃には、画面いっぱいに「ありがとう♡」の文字が映っていた。僕は「どれみぃぃ、どれみぃぃ…」とテレビに向かって吠えることしかできなかった。

 

おわりに

こうやって、僕らは心に穴ばかり空けていく。なんでどれみは僕を置いていったのか。なんで僕は一緒に卒業できないのか。どれみがいない世界をどうやって生きていけばいいのか。日常アニメの最終回の後は、いつもこんな感じでグロッキー状態だ。

ヘドロみたいなどうしようもない気持ちを収めるために、ついついやってしまいがちなのが、新しい日常アニメを観てしまうこと。いやぁ、だって仕方ないじゃない、寂しいんだもの。昔の女を忘れるためには新しい女を抱くしかないみたいなクソな発想だけど、これくらいは許してほしい。でもね、この新しい出会いにも最終回があって……(涙)。ほんと、いつまで苦しめばいいんだろう。

書いた人:稲田ズイキ

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