(出典:amazonより / ©Funimation)
きっと誰もが自分を肯定できるワケじゃない。
そもそも自分に価値があるって思えるか? 孤独なやつなら尚更思えないだろう。
そんな時、「周りの誰かが決めた自分の価値なんて、本当の価値じゃない」
そう思わせてくれる作品がある。
それが『フリクリ』だ。この作品を是非紹介させて欲しい。
フリクリすごいぜ!
『フリクリ』とは、『新世紀エヴァンゲリヲン』や『トップをねらえ2!』、『天元突破グレンラガン』、『キルラキル』などの名作を生み出したスタッフたちが作成したOVA作品だ。
どこがすごいのか?
まず、作画が飛び抜けてすごい。見て欲しい、このクレイジーに動き回るアクションシーンを。
中身のストーリーも非常に面白いし、何より、演出のこだわりがスゴイ。
歌入りのBGMに合わせたキャラのアクション!エフェクトのタイミング!
すべてが揃っている。まさに乱れのないスペクタクルな映像体験。これも全て鶴巻和哉監督の成せる技。
心から感謝と敬愛が尽きることはない。そう、私はフリクリに救われてきた。
自分の価値を認められない
「少し勉強ができる」
「オタクである」
この二属性だけで、DQNの多い田舎の学校では悪目立ちする。
言うまでもなく、フリクリと出会ったのは、当時私がイジメにあっていた頃だった。
上履きを隠されるのは当たり前、絵に描いたようなカースト底辺の学校生活を送り、学校の裏サイトに名前指名でスレッドが立っていた。
しかし、私はイジメられても強情だった。変に何か問題提起をしたら、奴らに負けた気がする。ならば、いつかは見返してやると日々の勉学(とアニメ)に時間を費やした。
そんなある時、私をイジメていたA君が転校することになった。
「君と二人で話がしたい」
何故かそう言われて呼び出された。「最後まで何かされるのか」「嫌だなー…」そんな不安を抱えて指定の場所まで向かった。
さて、そこで何が起きたか?
なんと、彼は謝ったのだ。彼が何を話したのか、その後色々ありすぎて思い出せないのだが、「今までゴメン」的なニュアンスで謝られた。彼には罪悪感があり、私に対して謝りたかったらしい。
「ふざけるな!」
何の迷いもなくそう思った。腹の底が煮えくり返った。 謝るくらいなら、最初から何もするな。 自分の行いに責任を持て。これで全てが許されていいものか。 一体、私は何のために我慢と努力をしてきたのか?
しかし、その言葉は口に出せなかった。
もし認めてしまったら、自分が惨めになってしまうからだ。
怒りの矛先をどこへ向かわせればいいのか分からず、相手を傷つける術のない私は、自分を責めることしかできなかった。
心が壊れた
他者に傷つけられ、自分を責め傷つけ、もはや心は無いに等しい私は本当に廃人と化していった。
別段、より無口で暗い印象になったわけじゃない、むしろより笑顔を絶やさず、それからも続いたいじめに対して、平然な面持ちであった。
しかし、唯一無二の友人に言わせれば、「気味が悪い」と。
本当は自分でも分かっていた。でも、どうすればいいのか分からなかった。根本的原因であるイジメをなくすには、オタクをやめて、勉強をやめて、【普通】になればいいのか。 せめてオタクをやめれば、自分は少しでも【まとも】になれるのか。
そんなことばかり考えているうちに、オタク趣味からは徐々に遠ざかり、同時にあらゆることへの気力が失せていった。
当然、といえば分かりやすいくらい当然の落ちぶれ様だった。
ヒーローは突然に
そんな時期、たまたまレンタルショップでフリクリを見つけた。見慣れないパッケージ。最初は映画かと思った。それが、フリクリとの最初の出会いだった。
(出典:amazonより / ©キングレコード)
家に帰って、見始めた瞬間、全身総毛立った。
画面の色使い…アクション…キャラクターの言い回し…全てが感動的だった!
何より心惹かれたのが、この作品の「無意味な意味の持ち方」だった。真面目に言っている言葉に、実は全く意味が無かったり、逆に本当は深い意味があったり、ただのダジャレだったりする、そんな幅の広さや、奥深さに引き込まれた。
「空に向かって打ち返してみ。真のスラッガーは現実のボールを打つ前に、まず心の中でアーチを放っているのさ」
(出典:amazonより / ©キングレコード)
作中の主人公、「ナオ太」に、ヒロインの「ハル子」(画像)はそう言った。このセリフが私の考え方を変えた。
私がこの言葉から理解したことは、「周りの視線や陰口を気にして生きていくほど、馬鹿馬鹿しいものはない」ということだ。
そう、自分の在り方を他人に左右されるほど屈辱的なものはない。
作中の主人公ナオ太は、普通であることに辟易しながらも、普通でない事は起こらないのだと半ば諦観し、普通であることを望む。その姿は、どことなく当時の自分と被った。ヒロイン、ハル子にベースで殴られたことで自分の人生は一変すると思いきや、意外にもストーリーの中心からは、蚊帳の外。
そして、もう一人のヒロインで、「マミ美」という兄の元彼女も掴みどころがなく、それとなしに流されて、自分では何かしているわけじゃない。大人たちは夜に、ナオ太に分からないところで、分からないままに話を進めていく。それを横目に見ながら、ナオ太は新しい日常を受け入れている。
もちろん、才能だってあるわけない。作中でナオ太の兄はアメリカへ野球留学しているが、弟は特に野球が上手いわけではない。野球のシーンはあるがナオ太はバットを振らない。
しかし、ある時、町に向かって衛星が落下してくることになり、ハル子に連れられバッターボックスに立たされてしまう。
「そんなガキじゃ無理だろ!」「本番じゃ、あいつビビッて手が出ないか」
ナオ太は誰にも期待されていない。なんだったら自分にも自信はない。自分は野球留学した兄とは違う。
そこにハル子は言ったのだ。
「空に向かって打ち返してみ。真のスラッガーは現実のボールを打つ前に、まず心の中でアーチを放っているのさ」
「所詮バットを振んなきゃ始まらない」
そう、ホントは、やんなきゃどうしようもない。
「所詮バット~」は同話に出てくるナオ太に向けたセリフであり、ナオ太はバットを振ったのだ。 自分の覚悟を決めて振り切ったのだ。
周りの視線や陰口を気にして生きていくほど、馬鹿馬鹿しいものはない!
自分の在り方を他人に左右されるほど屈辱的なものはない!
周りの誰かが決めた自分の評価など本当の価値じゃないと、自分を証明するためにナオ太は振り切ったのだ。
ジャンプの主人公になれない私たちは
(出典:amazonより / ©Funimation)
結果はどうあれ振ったことがまず大事だ。
ここからいよいよナオ太中心に世界は周り、大活躍していく…。
と、いうワケではない。
世界はそう簡単に変わるわけじゃなかった。バットを振ろうと、ナオ太はその経験で何か変わったわけじゃなかった。
週刊少年ジャンプの主人公なら、こんなこと第1話でさっさと済ませ、レギュラー入りを果たし大活躍なのだろうが、ナオ太は自分の人生がそうやすやすと上手くいくとは思っていなかったのだ。
そして、だから私も変わらなかった。
アニメが好きで、勉強に励むことをやめなかった。
私がアニメを見るのを止めようが、勉強をやめようが、それで世界が大きく変わるわけじゃないだろう。
でも、だからこそ私は、やめた時の世界を考えるよりかは、続けた方の世界を選んでみた。
それこそ、自分の意思とは違うものを選ぶのは、バカバカしいと思ったからだ。
ただ周囲の反応は変わっていった。
「アイツはやばい」
「全然折れない」
そう言って引いていった。
私をイジメる時間が減ったわけではないが、イジメる人間は徐々に減っていき、逆に私のことを認めてくれる人が増えていった。
ナオ太はバットを振った。
その結果、周りの人間たちがナオ太を物語の関係者と認めたように、私も勇気を出して変わらなかったことで、認められたのだった。
クレイジーになり切れないなら、所詮なんもわかっちゃいない
(出典:amazonより / ©Funimation)
フリクリを見て人生が劇的に変わったわけじゃない。
しかし、フリクリを見て自分の生き方を肯定することができた。そういうパワーがこの作品にはある。周りの誰かが決めた自分の評価など本当の価値じゃないと、自分を証明するために小さく立ち向かう覚悟を決めることができた。そういった心を熱くするものが、フリクリからは伝わってくる。
生きていて幾度となくぶち当たる壁というモノを、壊したり、超えたり、縮めたりする概念や思想がたっぷり詰まっている。
私も当時を振り返ると、そういう壁にぶつかって難しく考えすぎた。
人間、考えすぎるとその悩みのスケールや出口が見えなくなってしまう
でも、本当は悩んで立ち止まっている暇なんてないのだ。
そもそも、体の半分もない脳だけで考えるなんて馬鹿げているではないか!
考えすぎて、もう自暴自棄になりかけている人がいるならば、一刻も早くフリクリを見て作品のクレイジーさを頭からかぶってほしい。見終えた後、きっとあなたは馬鹿馬鹿しくなってくるだろう。
そんな悩みなんてのはホントは実に些細で、頭を抱えるべき事態なんてそもそも目の前にはなかったのだ。
「空に向かって打ち返してみ。真のスラッガーは現実のボールを打つ前に、まず心の中でアーチを放っているのさ」
(文:カエデ 編集:ノダショー)