DON'CRY -ドンクライ-

アニメやマンガ、ゲームに小説、音楽など、「作品」によって孤独から救われて生きている人のためのメディア

とあるアニメに「呪い」をかけられた面倒くさい女の半生

呪いをかけられたことってありますか?

ここでいう呪いはハリー・ポッターとかに出てくる「呪術」ではなく、誰かの行動や思考を縛る、あるいは操るアレです。

「白いズボンをはいた日は必ず電車が遅れるな」
「黒猫が横切ったからこの後きっと嫌なことが起こるな」
これが呪いです。
なんでもないことに法則性を見つけると、人間の思考は簡単に縛られてしまうもの。
こういう一見単純な呪いを避けるのは難しくて、私はこれまで親や学校の先生の言葉、雑誌の占い、小説のセリフなどからたくさんの呪いをかけられてきました。

その内のひとつが、ついこの間とけたんです。
プレゼントのリボンを解くみたいに、シュルシュル~って。
あまりにあっけなくて、しばらくは理解が追いつかなくて、もう一度呪いをかけ直そうとしたくらい。

今回は10年にわたり私を縛り続けた呪いと、その呪いをかけたあるアニメについて書いていきます。

 

私とワタシと勲と

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出典:amazonスタジオジブリ

24歳になった今年、ひさしぶりに高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」を見ました。

あらすじざっと要約するとこんな感じ。
東京で大手企業のOLとして働く27歳の岡島妙子は、10日間の休みをとって山形へ田舎体験へ行くことに。
休み前、田舎が欲しかった小学生時代の話を姉としたことをきっかけに、妙子は当時の自分をすぐそばに感じながら旅に出ます。
自分の将来について悩んでいた妙子は、滞在先の農家の青年との対話を通じて、自分の進むべき道を見つけるのでした。

「あなたって大変な過去を背負って生きてるのねハッハッハッ」 

 冒頭から主人公の姉のセリフにカウンターを食らう私。
糸井重里が「私はワタシと旅に出る」なんてコピーをつけてたから「ほっこり自分探しの旅」みたいなイメージで見始めたのに、なんか思ってたのと違う。

「なんだよ”大変なもの”って。そーだよ私(たち)は嫌な過去を定期的に思い出すことで自分をいましめ、息をするように「つらい」って言っちゃうような面倒で厄介な生き物なんだよ。高畑勲って喪女板でも見てんのかな。」※映画が公開された1972年。2ちゃんはおろかインターネットがない

この映画を初めて観たのは10歳の時でした。
当時の私が結婚適齢期やら過去の精算やら考えるわけもなく、内容も紅花畑でくしゅくしゅした黄色い花を摘んだり、いかにもクソガキという男子が初潮を迎えた女子に対して「生理がうつる~!」って言ってたくらいしか覚えていませんでした。

そんな部屋の隅から出てきた、戻る場所のわからないネジみたいな断片的な記憶の中、ひとつだけ鮮明に覚えているセリフがあります。

「先生に言われた通り素直に分母と分子をひっくり返して、分数の割り算をすんなりできた人はその後の人生もすんなりうまくいく」

なんでもないように聞こえたそのセリフを、なぜか私は覚えていました。
それはじわじわと体を蝕む病魔のように、中へ中へと入っていきました。


妙子にとっての割り算、私にとっての時計

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当時の私はなぜあのセリフを覚えていたんだろう。
主人公同様、分数の割り算ができなかったから、ではありません(意外とすんなりできた)。

それは割り算を学ぶずっと前、時計の読み方が理解できなかった5歳の自分と、割り算をすんなり飲み込めない主人公を重ねたからでした。

なぜ時計は1という数字を5と読むのか。幼ながらに理屈っぽかった私は、素直にそのまま覚えるってことができませんでした。
まったく理解ない私にしびれを切らした母親は、時計を投げつけ言いました。

「1は5分、2は10分、6は30分って覚えればいいだけでしょ!?わかるようになるまで部屋から出るな!」

けっきょく自分がどうやって時計の読み方を習得したのかは覚えてません。
畳に転がる木製のおもちゃの時計と鼻先でピシャッと閉じられたふすまはめちゃくちゃ鮮明に覚えてるけど。
まあ当時の私ががんばったおかげで現時刻が午前3時10分ってことがわかるわけですが。

たぶん時計の読み方は人生最初期に経験した”挫折”だった気がします。

その後、中学に上がった私の前に数学という壁が立ちはだかりました。
毎回テストは赤点で、クラス分けはいつも一番下で、長期休みの補講は常連で、私はとにかく数学が大嫌いでした。
覚えても覚えても新しい公式が出てきて、連立方程式やら平方根やら扇型の面積やら。
とくに証明!あれな!

「なんで毎回テストのたびに違う方法でxとyの関係を「証明」しなきゃいけないの(どんだけ複雑な関係だよ)」
「もうxがyならそれでよくない?答えでてんじゃん!」
「そもそもなんで「数学」なのになんでこんなにだらだらと文字を書かなきゃいけないの」

振り返ってみればただの数学嫌いの言い訳にしか見えないんですが、当時の私は真剣に「なぜ証明しなきゃいけないのか」について考えていました。
(そもそも数学者が解いた公式に数学嫌いが挑むって本当にアホなことをしていたな)
時計も証明も「こういうもんだ」って覚えれば済むことでした。
けど、そういうことに悶々とするたび、私はあの分数の割り算を素直にできなかった主人公を思い出していたのでした。


人はなぜ呪いにかかるのか

人に褒められて素直に喜べなかった時。
小さなことでうじうじ悩んでしまった時。
「こういうもんだ」と受け止められない時。
あのセリフが脳裏をよぎる。
そして、自分は素直じゃないんだと実感する。

人はなぜ呪いにかかるのでしょう。
割り算のセリフ同様、呪いとなる言葉それ自体は無害に見える場合が多いと思います。
一見なんでもない言葉なんだけど、なぜか飲み込めない。
頭の隅にこびりついて離れない、しこりのようなものだと思うんです。
普段は気にしてないけどいつでも手の届くところにあるから、ちょっと似たシチュエーションになると簡単に再生できてしまう。
そして何度も手を伸ばして再生することで、言葉は呪いへと変わっていくのではないでしょうか。
まるで黄色かった紅花が工程を重ねることで艶やかな紅となるように。

無害な言葉が呪いになることに気づいた私は、言葉に怯えるようになりました。
家族、先生、友人などの周りの人の会話だけでなく、本や映画のセリフまで、なんでも呪いに聞こえてしまうから。
呪いから自分を守るために、私は他人の言葉を疑うようになり、人に期待することをやめ たのでした。


呪いはかけるも一瞬 解くも一瞬

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割り算のセリフを耳にしてから気づけば15年、「自分は素直じゃない」と信じ続けてきました。
その呪いがついに解けたんです。
初対面の人にたった一言「素直だね」と言われたからという理由で。
10年以上自分を縛っていた呪いの顛末とは思えない(思いたくない)あっけなさでした。

本当は私って素直だったんだろうか?

その人と会った帰り道、このことだけを考えてました。
どんな話の流れでその人がそう言ったのかも、そのあとどうしたのかも覚えていません。

15年間、自分は素直じゃないと思い込んでた。
なのにたった一言「素直だね」と言われただけで「あれ、私って素直なの?」と思い始めてしまう自分にとにかく腹が立ちました。

あの一言を思い出しては、自分のひねくれエピソードでもってその可能性を打ち消しました。悔しくて。
けど、どれだけ繰り返してもあの一言が上書きしてくる。
何回も何回も何回も。

ああ、素直だからあのセリフに固執してしまったんだ
素直だから自分に向けられた言葉を正面から受け止めちゃってたんだ
自分で自分を呪ってしまっていたんだ

、、、もう書いてて自分の思考回路のあまりの厄介さにうんざりしてるんですけど。
要は呪いにかかりやすい体質だったんですよ、私は。
もー私ってばホント素直!
なんでこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。しょーもな!

こうしてもう二度と会うことはないだろうその人によって、私を15年間縛り続けた呪い、どころか自分の呪われ体質まで解明されてしまったのでした。

でも、もしあの時「おもひでぽろぽろ」を見ていなければこんなこんな面倒な人生にはならなかったはず。。。
全部勲のせいだ!私の15年返せ!


呪いは自己演出だった

けど、ここで一つ疑問が。
あれだけ呪いに怯え、他人の言葉に対して用心深かった私に、なぜその人の言葉は届いてしまったのか。

だって、いつもの私だったら「いやいや私のことちょっとも知らんくせに何を言ってるんですか。私ってばこんなに厄介な人間なんですよ」とか言ってたはず。

「自分は素直じゃない」と思い込み始めてから初めて言われた言葉だったからでしょうか。
それとも素直にその言葉を嬉しいと思ってしまったからでしょうか。

理由は単純で、「私=素直じゃない」という前提を真っ向から否定されたからだと思います。

例えば「素直じゃない私」を共有している相手からの言葉は、例え褒め言葉でも皮肉として 受け止めてしまう。
でも、「素直じゃない私」を共有していない人はそう生きてきた私に対して正反対の印象を 持った。
ということは、私は自分で「素直じゃない」という役を演じていただけでした。
この事実が私の鉄壁の「呪いシールド」を一瞬で破ってしまったのだと思います。


「呪い」に呪われていた事実

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「素直じゃない」呪いが解けたのと同じ時期に、意外な人が「私に呪われた」と言ってきました。
その人とは私の妹でした。
「先生に言われた通りに分数の割り算ができる」ような素直で明るい性格の彼女は、ひねくれ者の姉の羨望と嫉妬を一身に浴びながら育ちました。
大学生になっても性格は変わらず、多くの友人に囲まれ相変わらず人生楽しそうに見えた妹に言われました。

「お姉ちゃんは自分の言葉がどれだけ私の人生を縛りつけているかわかってない」

人生すんなりいっているように見えたその人、つまり私の妹もまた呪いにかかっていました。
彼女いわく、自分の価値観は姉である私によって形成されていて、そこから抜け出すことは不可能に近いそうです(ファッションも読む本も眉毛の形まで)。
そして、その呪いをかけたのは誰よりも呪いに怯えていた私だった。
自分がかける側になっていた事実に驚きつつ、妹もわたし同様、もしかしたらそれ以上に素直だったのだと気づかされました。
(「周りはインスタ大好きなのにお姉ちゃんがインスタ嫌いなせいで私も楽しめない」と言われた時はさすがにかわいそうと思ったけど、、、笑)

結局呪いというのは誰も避けられないものなのかもしれません。
呪っては解き、呪われては解き。
きっとわたしたちは死ぬまでこの作業をその繰り返すんでしょう。

ただひとつだけ、私のように呪いに怯えている人に伝えたいことがあります。
自分で自分を呪ってしまってはいないか。
無意識に自分に呪いを言い聞かせていないか、思い返してみてください。
私が「素直じゃない」と思い込んでしまっていたように。
そうすることでいままでより少しだけ生きやすくなるかもしれません。

 

書いた人:さるみ。

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