DON'CRY -ドンクライ-

アニメやマンガ、ゲームに小説、音楽など、「作品」によって孤独から救われて生きている人のためのメディア

生活環境を愛せるか。幸せになる分岐点を『新海誠展』に学ぶ

f:id:don_cry:20171216121111j:plain

読者の方々にお会いする機会があると、新海誠の話になることがある。

そして、大体、『秒速5センチメートル』が一番好きという話で盛り上がり、『君の名は。』のヒットに複雑な想いを抱いていることに共感する(笑) 新海ファンとは面倒にして、どこかいじらしさがあって大好きだ。

さて、そんな新海誠がフィーチャーされた『新海誠展』、皆様はもう行かれただろうか? 僕は18日に終了してしまうと聞き、駆け込みで行ってきた。そして、心動かされた。5回くらい泣きそうになった。

でも、実際に何人も泣いている人がいた。それくらいエモい展示なのだ。

そして、そんな新海誠展を通じ、通底する彼の考え方が伝わった。それは、「自分の生活環境をいかに愛せるかが、幸せに生きる分岐点だ」ということ。

これはどういうことか? ざっくりではあるが、展示を振り返りつつ深掘ってゆきたい。

 

「ほしのこえ」で流星の如く現れた才能が見ていたのは埼玉

f:id:don_cry:20171216124243j:plain

『ほしのこえ』は言わずと知れた新海のデビュー作。グラフィックデザイナーとして新卒で入社した日本ファルコムを数年で辞め、8か月ほど引きこもって制作された作品だ。


新海誠 ほしのこえ インタビュー

そして、『ほしのこえ』の舞台は埼玉県大宮市。

しかし何故、住んでいるからと言って大宮をわざわざ舞台にするのか? それに対する理由はこれまで分からなかった。

しかし、展示の一部から以下のようなことが分かった。

中央大学文学部に合格が決まり、実家である長野を出て、埼玉県大宮市に住み始めた新海。

在学中には彼女も出来て、いつも遊んでいたのが大宮だったそう。最初は都心ではない埼玉県大宮があまり好きではなかったらしい。

しかし、大学を卒業して就職してからも、会社を辞めて一人で制作を始めてからも、目の前に在り続けた風景が大宮だった

それを受けて、2002年の埼玉新聞のインタビューにはこうある。

健やかに生きたいなら、自分が今いる環境を好きになるしかない。

背景美術や小物設定に並んだ、新海のこの言葉を前に、僕は衝撃を受けた。

言われてみれば、彼はずっと、自分が生きている世界を「好きだ」と肯定したい欲求に溢れているように思えたからだ。

新海が取り上げる、小物や風景の美しさ。机の上に置かれたコップに入る自然光が、夕陽の当たる踏切の陰が、ガラケーのディスプレイから漏れる人工的なブルーライトが、そのどれもが僕らがボーッと見る世界以上に色を持ち、美しく、時に切なく見えてしまう。

2002年2月2日に世田谷区下北沢のミニシアターであるトリウッドで公開された『ほしのこえ』は連日満員。シアターの前には長蛇の列ができ、上映期間が延長された。星雲賞、デジコンなどで受賞し、DVDではインディーズアニメとしては異例の10万枚の売り上げを記録した。

しかし、そんな驚異的な才能の原点は、ただ、自分が住む埼玉県大宮市に存在する、暮らしの風景を愛するということだった。

そしてこれが、新海の全ての作品に通底する彼の思想なのではないか? それを展示は解き明かすように進んでいく。

 

ロボットやSFから一度外れた『秒速5センチメートル』

f:id:don_cry:20171217124556j:plain

『雲の向こう、約束の場所』『秒速5センチメートル』と地元を離れ、新海の世界の肯定は幅を広げていった。

この時、今まで連なる新海作品を支えるプロダクション、Comix Wave Filmのプロデューサーはこう述べている。

見てる景色ですね。それが、彼の目と僕らの目が違うんじゃないか。映り方が。だからこそ、ああいう綺麗な風景が描けるんじゃないか。それが彼の才能なんじゃないかと思っています。

これをまるで証明するかのように、『新海誠展』では実際に新海が背景美術のために撮影した写真と、実際の背景美術が幾つも並べられ、比較されている。それらは角度もサイズもほぼ同じ。

なのに、その場を通って感想を漏らすほぼ全ての人が言う言葉がこれだ。

実際の写真より綺麗…。

そうなんである。新海が起こした美術は実際の景色の数倍も目を奪われる。これが俗にいう「新海フィルター」だ。それに対し、新海は音声ガイドでこう答えている。

自分が見たい景色を映像にした

 まさしく、あの映像は彼が見たい世界が、彼というフィルターを通して出来上がったものの証明だった。そしてこれも、彼が行いたい世界の肯定のやり方なのだろう。

 

 

職人的少年のまなざしを描く『言の葉の庭』

そして、『言の葉の庭』でフォーカスされたのは、靴づくりをする少年の姿だ。

彼が靴を作る姿をカメラは丹念に追う。丁寧にサイズを測り、設計をし、皮を選び、型に打ち込んでいく。それだけのことなのに、彼はなんとも幸せそうだ。

そして、同時に本作のテーマの一つが「駄目な大人を描く」ということでもあったように、母親は彼氏のもとに家出をしている。

対する彼は、靴の専門学校への学費をアルバイトで貯めながら、静かに靴を作っている。

確かに彼は普通の高校生に比べらたら苦労が絶えないのかもしれない。

しかしその姿は、どこか実直で幸せそうだ。つまるところ、彼は小さな幸せをもう見つけているのだ。他人がどうあろうが、彼が愛する彼の世界は、誰にも侵害できない。

新海が彼を描いたのはひどく必然性がある。それはつまり、小規模でも世界を肯定している人間を描いているからだ。

 

集大成として一本、『君の名は。』

『君の名は。』は新海作品のコンピレーションアルバムと言われることもあるが、それまでの作品の象徴的なカットを取り入れながら、映像的な美しさが極地に達する。

それに対し、ボイスガイドを務める神木龍之介が以下のように述べる。

高校時代に『秒速5センチメートル』を見て、新海作品に心を奪われた。自分なりにアフレコをしてみたりして、いつか監督の美しい世界の一つになりたかった。だから、『君の名は。』で瀧くん役が決まって嬉しかった、と。

それを受けてかは分からないが、展示の新海の言葉が映える。

でも、美しい景色に生きる人間だって、世界の美しさの一部なんです、と。

そう、僕らだって新海の世界を通してみれば、美しさの一部なのだ。惚れた腫れたを繰り返し、酒や女におぼれたり、間違ったりすれ違ったりもするけれど、それでも、僕らは美しい景色の一部だ。

 

新海作品を見た後、世界がいつもよりちょっと綺麗に見えること

昼過ぎに劇場で新海作品を見て、夕暮れに外に出た時、いつもよりも夕焼けが綺麗に見えたことがある。そんな時は決まって、ふだんは気付けない美しさが見えてくる。例えば、光と影が織りなすバランスだったり、金属の光沢であったり、冬の張りつめた空気であったり。

普段はなんの変哲もない景色が、ちょっとだけ綺麗に見える。これは、新海フィルターが一時的に僕らに影響を与え、感性を鋭敏にしてくれているからなのだと思う。フィルターが、世界の解像度を上げているのだ。

だとすれば、新海のように世界を美しく見れない僕らでも、そういうまなざしをその時々に学んで、生活を愛することは可能なのかもしれない。

例えば、彼が愛する村上春樹は、『ねじまき鳥クロニクル』にて、セーターを着てコーヒーを入れるという行為にまるまる見開きを割く。

それを読んだ後にセーターを着ると、何故かこれまで気にも留めなかったセーターの質感まで分かるようになったりする。そういう力が、クリエイターの描写力にはある。

健やかに生きたいなら、自分が今いる環境を好きになるしかない。

では、それに対して自分ごと化する問いはこうだろう。

あなたは、今生きている自分のいる環境が好きだろうか? 人が好きになれなくても、その町の景色や、お店、持っている道具や小物は好きだろうか? 行ってみたり、使ってみたりしているだろうか?

その答えがイエスで、具体的な例がいくつも思い浮かぶ人の幸福度は、きっと高い。

例えばだけど僕はあまり自分の街が好きではなかった。

けれど、ある銭湯が好きになり、週2で行くようになってから、その銭湯を基盤にして、街が少しずつ好きになった。昼過ぎに行く銭湯のお湯に光が差して乱反射する姿に心洗われたし、水風呂の冷たさに背筋が伸びた。風呂上がりに買った懐かしの珈琲牛乳に、小さな幸福を感じた。

その幸せは絶対に手に入り、安定し、仕事でミスをしても、他人が思い通り動いてくれなくて苛立っても、そこにあり続けている。

そういうものを、一つ一つ、もう一度丁寧に掴まえ直し、自分の歩く半径5メートルを好きになっていくことが、健やかに、豊かに生きるコツなのかもしれない。そして、新海の描く世界は、その一歩に、少しだけ力を貸してくれるに違いない。 

僕が行くのが遅くて、更に筆が遅くて、明日がなんと最終日になってしまうけど、新海誠が好きな方は、ぜひ『新海誠展』にも足を運んでみて欲しい。 

 

会場
国立新美術館 企画展示室 2E

開催時間
10:00~18:00 ※入場は閉館の30分前まで

 

書いた人:ノダショー

twitter.com