※この記事はネタバレを含みます
『シェイプ・オブ・ウォーター』は最高だ。涙なしには見れない。
でもな、ツイッターで「アカデミー作品は利権とか政治的な〜」とか能書き書き垂らして見てないやつは、さっさとブラウザ閉じて一生ウェス・アンダーソン見て女を頭ごなしに口説いてろ。その世界で満足して一生マスターベーションしてくたばってろ。DON'CRYのブックマーク外して、ブックマークのほとんどがXvideoで埋まってろ。
もうね、それくらいに、DON'CRYの読者の人に見てほしい一作なんですよ。
「オタク」とか「LGBT」とかみたいな社会的マイノリティである人間も、SNS、特に興味関心で繋がれるツイッターで救われていることを知らしめた。
同時にツイッターのようなSNSで、俺たちは本当に繋がれているのか問う作品なのだ。
『シェイプ・オブ・ウォーター』はツイッタラーを全力で殴り、全力で抱きしめる
見た人は飛ばしてほしいが、『シェイプ・オブ・ウォーター』のあらすじはこうだ。
清掃員として政府の極秘研究所に勤める発話障害のイライザは孤独な生活を送っていた。だが、同僚のゼルダと一緒に極秘の実験を見てしまったことで、彼女の生活は一変する。 人間ではない不思議な生き物との言葉を超えた愛。それを支える優しい隣人らの助けを借りてイライザと“彼”の愛はどこへ向かうのか……。
さて、「不思議な生き物」と「声の出ない女性」。この組み合わせに悲哀は感じるが、作品を見るかぎり2人はとても幸せだ。
たとえ周囲が2人の関係を非難しようとも、「会話ができない」という障害を抱えた二人はおのずと共鳴し、惹かれ合う。
もうこの時点でさっさと見る理由をわかってほしい。例えば、ミリオタのやつがいたとして現実で、
「ルノーFT17は世界で初めて旋回式砲塔を装備した戦車でさ、乗員区と機関区を区切ったことにより操縦性が格段に向上したんだ。今までの戦車の欠点であった車内の環境を改善させた。もちろん、小型で2人乗りのことからも高く評価され、各国に多大なる衝撃を与えたんだよ。」
なんていきなり言おうものなら即座に「キモい奴」認定待ったなしだ。
けど、ツイッターなら、そういうことを聞いてくれる奴なんていくらでもいる。
社会的に「キモい」「可愛そう」「惨め」とか思われようが、俺たちにはツイッターに俺たちのコミュニティがある。
社会でマイノリティに見られようが実際には関係ないでしょ。だって俺らは幸せで理解しあい、笑っていられるんだから。ぶっちゃけ外様の声なんて右から左に聞き流していい。
SNSという巡り逢いの場所に、分かり合えるコミュニティやコミュニケーションがあり、俺たちは決してひとりぼっちではなかった。
でも、ツイッターで本当に俺たちはつながっているのか?
ただ同時にデル・トロ監督は俺たちに問うている。
インターネットが繋がりを拡張する中で、「不思議な生き物」を直接見たときに本当に俺たちは受け入れられるのか?と。
(デルトロ監督)「今の世の中は、ソーシャルメディアのおかげで、いまだかつてないほどコミュニケーションが盛んに行われていますが、それと同時に、いまだかつてないほど寂しさを感じている人が多いと感じます。
皆、率直な気持ちや感情を見せたり伝えたりすることに対して、大きな不安を抱いている。無関心を装ったり、皮肉や嫌味を絡めたりしないと、コミュニケーションが取れない人も大勢います。」
俺はTwitterに住み着いているからいろんな人のツイートを見るけど、正直、そこでつながっている人は友達とは言い切れない。
デルトロ監督の言う通り、表面的というか、その人の本質が見えにく中でおチャラケたり、ふざけないとコミュニケーションが取れないこともある。それはリアルで対話をするときにあまりにも不自然だからだ。
加えて、率直な気持ちや感情を見せたり伝えたりすることに対して、不安を抱かせる揶揄が確かにツイッターには存在する。
例えばだけど、こんなツイートをしている奴にはとことん物申したい。
エアリプがめちゃくちゃ効いてる人の真似します。
— she (@satsuixxx) 2018年3月5日
「みんなたかがTwitterの言葉で一喜一憂しすぎじゃない?私は顔も知らない相手からの批判なんてどうでもいいけどなー。色んな意見があって当然だし、むしろ気づかせてくれてありがとうって感じで前向きに捉えてる(笑)」
うるせぇ! 気にしてるやつもいるからやめろ! 俺とか!
同じように、ねじれたコミュニケーションにだって物申したい。
寝てないし下から撮ったら丁度いいブスになった pic.twitter.com/HtvXuOoKbF
— 霧宮てん (@kirimiya_ten) 2018年3月10日
私かわいいって言えないから言ってほしいんだろう。でもな、可愛いんだから安心しろよ!
下手なんだけど色は気に入ってる絵茶で描いたやつ pic.twitter.com/kGNXavy9up
— ぴーすけ🏉 (@hnbgtmy) 2018年3月14日
下手? バカ! うまい! じょうず!
他にも「FF外から失礼します」もよくわからん。ネットなんてほとんどが知らねぇ奴の集まりなんだから、変にかしこまる必要あるか?
さて、こんなねじれたコミュニケーションしか出来なくなっているツイッター界とは対照的に、劇中の登場人物はふれあいの中で喜び、傷つく。
会話のコミュニケーションができなくとも、彼/彼女らは互いに尊敬しあい、情愛が生まれ、たくさんの「ありがとう」を捧げ、涙を流す。
でも、ツイッターはどうなんだ? 現実での付き合いもなにのに、「俺〇〇と相互フォローなんだよね」って自慢してくるやつもいる。
たとえそこに喜んだって、Twitterは何か一つでも嫌なことがあれば、ボタンひとつでさようならだ。あまりに淡白なふれあいの中で、一体どれほどの「ホンモノ」がある?
例えば、Twitterで悪く言われても大して傷つかないが、会ったことある人に言われれば100倍傷つく。それは多面的で複雑な自分を知られているからだろう。
とどのつまり、俺たちはどれだけ「ホンモノ」なんだろうか?
「SNSで世界はかつてなく近づいたが、同時に離れた」の意味とは?
ギレルモ「こんな人生のはずじゃなかったという気持ちを、ミュージカルやメロドラマなど、映画が癒す。そういう映画にしたかった。作られずにはいられなかった。分断と恐怖、他人を指差して、共感や同情が欠如した現在。SNSで世界はかつてなく近づいたが、同時に離れた」https://t.co/CfDavr8O1D
— 鶴原顕央 (@tsuruhara) 2018年3月6日
ネットがない時代は興味関心でつながること自体が難しかった。
でも、ネットができ、興味関心でつながるツイッターができて、確かに人は近づいた。
だが、そこでは歪でねじれたコミュニケーションが行われ、本心を見せることはない。
そこでの繋がりは「お世辞を言い合う友人」のように不自然だ。
例えば、ポケ廃でつながった人が、ある日突然、写真クラスタになったとする。その場合には関係は切れるだろうし、むしろ「なんなんだ?」と影で糾弾するかもしれない。
さぁ、『「不思議な生き物」を直接見たときに本当に俺たちは受け入れられるのか?』の問いに帰ってくるぞ。
相手は生身の人間で、「ホンモノ」だ。それゆえに、いつだって「不思議な生き物」になりうるはずだ。ポケ廃がいつ写真クラスタになったっておかしくないんだ。
でも、歪でねじれたコミュニケーションがホンモノだと錯覚してしまえば、そうであることを理解できなくなる。近づいたその人との間にあるのは浅く、1面しか知らない関係だ。
だから、「不思議な生き物」に変化してしまった時、抱擁できない。どんだけそれまでにポケモントークで盛り上がってようが、関係は崩壊し、永久に消え去る。その関係は泡のように脆い。虚しさを感じない方がおかしいよな。
そう、これが「SNSで世界はかつてなく近づいたが、同時に離れた」の真意だろう。
じゃあ仮にさっきの例で、もし本当につながりあっているとしたら、そんなことをするだろうか?
おそらくまず、「なんでそうなったの?」と話を聞き、たとえ理解できなくても「寂しいけど、自分にとって面白いものを見つけたんだな」と許容できるだろう。大事なことだから2回言う。たとえ、理解できなくても、だ。
手前味噌で恐縮だが、ドンクライはツイッターを活用してユーザーと繋がってDMでやりとりをするし、一番大事なものをリアルのイベントと位置付けている。
そこで酒を飲み、勇気を出して一歩踏み出して生きづらかった境遇を話し合い、理解できなくても認め合う。「かわいそうに、変な奴だな」と上から目線で同情するのではなく、「こいつはこいつで救われているんだな」と対等な立場から共感し合う。
繋がれるネットのいいところは取り入れるが、俺たちには捻れ、離れたコミュニケーションなんていらない。裏垢女子と勝手にやってろ。
孤独を抱えたまま生きていい
『シェイプ・オブ・ウォーター』は「愛と映画」の物語だ。魚人と声の出ないヒロインがそのまま愛し合う、ありのままのピュアな物語だ。
現実には理解してくれない奴もいる悲しみもあるが、理解してくれる奴がいる喜びもある。
だから、とり繕う必要はない。無理に認められる必要もない。
魚人であること、美少女アニメが好き、男だけどスカートが履きたい、裸足で歩くことが好き、ルギアでヌケる、それが「孤独」であろうともいいじゃないか。
ありのままの自分は醜いかもしれないが、受け入れる奴は絶対にいる。また同時に理解されなくても、それに怯えることはない。
だって、デル・トロ自身がこう語っているんだ。
僕は信じている。僕たちは互いに愛し合うことができる一方、“違っている”ことや、“よそ者”であることを恥ずべき存在だとする者たちと距離を置くこともできるのだ
(『ギレルモ・デル・トロのシェイプ・オブ・ウォーター/混沌の時代に贈るおとぎ話』序文より)
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